彼方へ・11






 
      丁寧にやすりをかけられた断面は、滑らかに光沢を放つ。
祐哉は慎重に細い刷毛を使ってこびりついたかすを履き取った。

「きれいだろ、父さん」
指先で撫でながら、また、独り言を口にする。
その度に、体を駆け抜けていった父の意識が蘇るような気がする。
あの時の感覚は、忘れようにも忘れられない。


磨き終えた部品を、きっちりと区分けされた箱に収め、机に広げた新聞紙を軽く折ってごみを集めた。
 細かい削りかすは、新聞紙の真ん中に小さな山を作る。
しばし、祐哉はその山を見つめ、指先で押してみた。
それらは崩れ、形を失う。
さらに、指先で広げてみる。
再び、新聞紙の半分を覆うほどになった削りかすを指先につけ、顕微鏡で見てみようか、と思う。
 どこまで小さくなるのだろう。
どこまで切ってみても、おそらく、なくなることはないのだろう。

「無は…ないんだ…」
母が言っていた言葉を、小さく口の中で呟いてみる。
 この削りかすのひとつひとつを顕微鏡で見てみたら、そこには、何が見えるのだろう。
これはすでに加工されたものだけれど、例えば生木だったら。
あるいは、そこには細胞の動くさまが見て取れるかもしれない。


 再び、かすを集めて山を作る。
この山を形作るもの。
これにもし、命があるのなら。

 祐哉は、小さく笑ってゴミ箱にそのかすを流し込んだ。
伸びをして、立ち上がる。
 今日は朝から模型に取り組んでいて、運動不足のせいか、体が痛い。
少しでも体を動かさないと。

 窓の外の木は、すっかり緑に覆われていて、その枝に来る小鳥の姿も見えない。
いるらしいことは、鳴き声で分かるのだけれど。

窓から身を乗り出すと、甲高い鳴き声と共に、数羽の小鳥が枝を鳴らして飛び立っていった。






 公園から見る海は、どこまでも蒼く、大きなうねりは見るものを引きずり込みそうな錯覚を起こさせる。
海岸近く、白く波が泡立ち、消えてゆくさまを、美久は公園のベンチで黙って見ていた。
すぐ隣で、栄治も黙って海を見ている。


 二人に会ったら、言いたいことは一杯あった。
なのに、ほとんど何も言えなかった。
ただ、総士が、髪を結ってみたい、と言うので黙ってされるままに髪を結ってもらった。
繰り返し、やり直して、うまくいかない、と、悲しそうに、それでも、笑いながら呟いた。
「小さい頃とは違うから…」
苦労して長い髪をまとめながら、総士は言った。
「小さい頃は毎日結ってたのに」
そう言って、背中に顔を伏せて、泣いていた。

 「お母さん、あんな不器用だったなんて知らなかった」
きれいには結えなかった髪を、それでも美久は髪を洗う時に、なんとかそのままで置けないだろうか、と、しばらく鏡を見つめていたものだ。
「不器用だって話は聞いてたけど」
「でも、一生懸命だったんだよ」
栄治は言った。
「優しいお母さんじゃない」
そして美久の頭を見、
「髪留め、どうしたの? いつもしてたやつ」
「うん…壊れちゃった…」
本当は、壊したのだけれど。

「…じゃあ…新しいの、上げる」
そう言って、栄治はポケットから包みを取り出した。
「ほんとは…もっと前からプレゼントしようと思ってて…でも、あの髪留め、お母さんのだって言ってたから…大事だろうな、って思って…」
顔を赤らめ、しどろもどろに呟きながら差し出すその包みを、美久はしばし、見つめていた。
 栄治の言葉に、嘘はないだろうと思う。
包装紙の角は破れかけ、リボンも皺くちゃになっている。
おそらく、長いことポケットに入れていたのだろう。
「あ。なんか汚くなってる…ごめん…」
栄治はうろたえたように慌ててリボンを調えた。
「いいわよ…ありがと。どんなの? 開けていい?」
「うん…」
 出てきたものは、黒いピンに金色のビーズで作られた小花が並んだ、可愛らしいものだった。
「栄ちゃん、つけて」
「あ、うん」
栄治はこれまた、不器用にピンを持ち、美久の後ろに立った。
ゴムで止められた部分に、かつん、と、軽くピンが当たる感触があった。
「…これでいいのかな」
美久はバッグから鏡を出して後ろを覗いてみた。
「…えっと…これってもしかして、逆さかな、って思うけど…」
「え?」
美久は笑った。
「ううん、いいわよ、これでも。どっちみち、上下分かんないような作りだし。…似合う?」
「…うん…似合うと思う…」
栄治は照れたように笑った。
「やっぱ…美久ちゃん、そういうの、似合うよ。
何もつけてなくてもいいけど…なんかこう…髪がきれいだから…引き立つって言うのかな」
ジーンズの膝をがさがさと忙しなくこすりながら、照れ笑いを浮かべながらの、栄治の様子が可笑しくて、美久は思わず笑っていた。
 鏡を斜めにした時に僅かに見える髪留めは、可愛らしい小花とはいえ、色のせいか大人びて見える。
――― 私、大人っぽく見える?
美久は空に向って、語りかけた。

もう少し早く大人になれていたら。
 あんなに子供じみたこと、言っちゃってごめんね。
胸の内で、呟く。

 どうして、あの時に言っておかなかったのだろう。
もう、今は直接言うことが出来ない。

 ねえ、でも、聞こえてるでしょう?
鏡に映っていた髪留めが歪み、霞んだ。

 ぎゅ、と、いきなり後ろから抱き締められて、美久は慌てた。
「栄ちゃん?」
「…泣くなよ…」
「あ…」
「泣くなよ。俺、守るから、美久ちゃんのこと」
美久は、思わず苦笑した。
「だって…私がフェストゥムと同じでも?」
栄治が、こくん、と頷いたのが分かった。
「俺だって同じだって言ってたろ? 近い存在だって。それに、美久ちゃんのお母さんたち、きっと…うまくやるよ」
「…ありがと…」
信じてくれて、ありがとう。

そっと、肩にかかる栄治の腕を撫でる。
「小さい頃は私に手を引かれてよちよち歩いてたんだって、栄ちゃん」
笑いながら言うと、腕に力が込められた。
「それ、小さい頃だろ」
むっとしたように言い返し、手を握ってくる。
美久は、その手を見た。

 父の手は、思い出の中のものよりも、小さく感じた。
それだけ、自分が大きくなったのだろう。
 「美久の手、小さかったのにね」
一騎は、そう言って嬉しそうに、寂しそうに笑った。
「いつもこうして…掴まってきてたのに」
それはもう、手に縋ることがなくなってしまったのを、嘆いているようにも聞こえた。


握ってくる手を握り返し、このような気持ちは、彼らにはないのだろうか、と思った。

 「感情は彼らには理解できない」
総士は、言った。
「感情と言うものもまた、共有されてしまう。その時点で感情は一つの情報として処理される。
かつてニヒトと我々が呼んだ者は憎しみを理解した。
でも、それは我々がいたから、我々に対してのみ、起こり得たものです。
感情とは我と彼があって初めて成立するもの。
すべて一つのもの、とする彼らの内部にあってはそれは一つの概念としてしか理解できない…」
そして、美久を見た。
「お前がもし…栄治君を好きと思うならそこに一つの発展があるんだよ」
美久は大きく首をかしげた。
「はあ?」
我ながら、間抜けな声だったな、と思う。
皆も、そう思ったのだろう。父も祖父も、笑っていたから。
総士もまた、微笑んだ。
「個が理解できない、というのはそういうことだよ、美久。
情報は蓄積されていくだろう。我々が千年かかっても得られないほど数多くの情報を持つだろう。
でも、それを受け継がせるものがない。
例えば…」
上の方を後ろで結び、あとはすべて流した美久の髪を、そっと撫でた。
「お前たちに受け継がせようとしているような。
…そして、お前たちがまた、次の世代に渡そうとするようなものがない…つまり、彼らは情報を蓄積は出来ても、それ以上の発展がない…」


 発展、か…。
美久は空を眺め、小さく呟いた。
自分たちは何を受け取り、何を渡せるのだろう。






































John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/

2006/04/06