彼方へ・1






 
   細く開けた窓の隙間から、裏庭で遊ぶ小鳥の姿が見える。
小鳥が止まるたび、柔らかな緑色の木の芽が揺れた。

 祐哉は小鳥から視線を外し、手元の部品を見た。
やすり掛けの終わったものから、きちんと並べてゆく。
 時おり、棚に飾った戦艦大和を見る。
祖父がケースを買ってきてくれて、それはまるで美術品のように大事に飾られている。

 「父さん、次は長門、作るからな」
ぽつっと呟き、そして、一人、笑った。
 この頃、何となく父や母に向けての独り言が多くなったような気がする。
特に意味は、ない。
意味は何もないけれど、そうすると心が落ち着く。

 丁寧にやすりをかけていて ―――
祐哉は、ふと、顔を上げた。
小鳥の声が聞こえない。
「………」
小鳥の声、揺れる木の葉のざわめき。
それらが、一瞬、消えた。
 胸騒ぎがする。


――― 空気が、変わった。
祐哉は作りかけの模型を放り出し、急いで家を出てアルヴィスに向った。

 何だろう、これは。

走っている間も、胸騒ぎは収まらない。
時おり、空を見上げる。

海から高く上る雲。
その光景は、見慣れたもののはずなのに。
ざわめく木の間から、小鳥が一斉に飛び立つ。

「……!」
思わず、立ち止まっていた。

 来た…!

再び、走り出した時、街にサイレンが響き渡った。




 アルヴィスには、すでに祖父がいて、祐哉を見るなり、
「出撃だ」
と、短く言った。
「うん。分かった」

 そうだ。
この胸騒ぎは、敵が来る時にいつも感じる、あれだ。
 そう思おうとしても、それとは違う、別の何かもある。
胸を締め付けるような。
大声で泣きたくなるような、何か。

 どうしたんだろう、俺。
唇を噛み締め、ひたすらに心を静めようと、ヴァーンツヴェックの中では目を閉じて数を数えていた。

 


 「遅かったじゃない」
美久も、栄治もすでに来ていた。
「うん、ごめん。すぐ支度する」
言いながら、姉の顔を見て、もしかしたら、彼女も同じ不安に襲われているのかもしれない、と思う。
彼女には珍しく、不安を表に出していて、栄治もそれに気付いているらしい。
いつものように軽口を叩くこともなく、ただ、姉の傍にいる。




 ファフナーに乗り込んだとたん、日向の意識が流れ込んできた。
「敵は…何体? 日向」
「見えるのは四体だけど、でも、まだいるみたい」
「分かった。今、どこにいるんだ?」
「海岸のとこよ、堤防の」
波の打ちつける堤防の端に立つ、日向の姿が見えた。
内心、舌打ちをする。
こういう時に素直に従う妹ではないことを知りつつも、祐哉は、
「シェルターに入ってろよ」
と、一応、言っておいた。




 CDCでは混乱を極めていた。
「四体、慶樹島沖合いです。でも、まだソロモンが何か…」
里奈の、緊張に引きつった声が響く。
「何か、とは?」
「答えを出しかねている様子なんです…」
「まだどこかに隠れていると言うことか?」
しばし、里奈からの返答はつまり、やがて、躊躇いがちな声で、
「そういうことかもしれませんが…むしろ、タイプの違うものがいる、ということかも…」
最後の言葉は呟きに近かった。

 どういうことだろう。
史彦は唇を噛み、唸った。
こめかみがちりちりと痛む。
まだ、どこかに別の敵がいる、ということなのか。
それとも。

――― それとも。

史彦は溝口とのプライベート回線を開いた。
「溝口、近くに日向はいるか?」
「ああ。いるよ」
「…傍を離れないでくれ、様子を見ていてくれ、頼む」
「あ? ああ、もちろん」
溝口は、おそらく、史彦が孫娘を案じて、と取っただろう。
もちろん、それもあるが。

 日向は、おそらく、もう一つの鍵だ。
島のコアは、未だ幼児のままだ。
彼女に代わる鍵となるのは、おそらく、日向だ。

 とはいえ、それはあくまでも想像に過ぎない。
史彦は小さく息を落とすと、再び、モニターに向った。
「剣司君、他のパイロットは?」
すぐ横でモニターを睨んでいる剣司に声をかける。
「はい、一応、待機させています」
すぐ、ですが、と、言葉を継いだ。
「多分、あの三人で大丈夫だと思います」
「…うむ…」
史彦は、腕を組み、ただ、モニターを見ていた。






 赤い景色が見える、
天井も、周りも、上にかざした自分の手も、すべて、赤い。
赤く見える。

 手。
手を、認識できる。
自分の手と言うものを。

 ざっ、と音がして、視界が歪む。
視界を歪ませていたものが、静かに上がってゆく。


 総士は、しばらくの間動かず、目を、そして肺を、馴染ませようとしていた。
それから、そろそろと体を起こす。
体にまつわりつく赤い液体は、床に大きな染みを作り、流れていった。

 隣には、同じようにカプセルが置いてある。
総士はその横に、軽く手をかけた。
待っていたかのように、蓋が開き、液体が流れ落ちる。

 あの時と、変わらない姿に、胸が熱くなる。
「一騎…起きろ」
まだ、声は掠れていた。
そっと、頭の下に手を入れ、持ち上げた。
「…悪いが…先に行く、一騎…」
軽く口付け、そっと手を離す。一騎は、まだ残る液体の中に沈んでいった。


 ゆっくりと、カプセルの横に手を伸ばす。
そこに、バスタオルがあることを、総士は知っていた。
 史彦は、毎日、ここにやってきた。
何も言わず、ただ、自分たちを見つめていた。
そして、自分の傍に来る時だけ、カプセルの上から首まで、バスタオルをかけるのだ。
 意識がない、と思っているはずの自分に対する史彦の小さな心遣いが、総士には、嬉しかった。


 バスタオルで、体を拭い、ロッカーへと少しずつ、足を動かした。
そこには、自分たちの衣類が入れてある。
 史彦は、自分たちがいつかは目覚めることを、信じていた。
それは、祈りにも近いものだったろう。
置いてあったものは、上から被るだけですむワンピースだった。
ストールまで、用意してある。
 総士は、そっと、それらに頬を当てた。
嬉しかった。
 史彦は、自分たちが目覚めた時に、すぐに着られるように、と、気遣ってくれたのだろう。
甲洋が目覚めた時に、体が良く動かなかったのを、知っていてのことだろう。

総士は、ゆっくりと着替えた。
心は急いていても、体は、やはり動かない。

 急がないと。

この島が、子供たちが、危ない。

「一騎」
ようやく着替え、今一度、一騎に声をかける。
「待てない。…早く来い」
動かない横顔に、泣きたくなる。
きゅ、と、唇を噛み、総士は目をそらした。
そのまま、ゆっくりと歩いて部屋を出た。


 外は、あの時のまま、変わっていなかった。
変わったところと言えば、覚えのある杉の木があの頃より高くなっている、ということくらいだ。

 春まだ早い風は冷たく、乾き切っていない髪は重い。
総士はストールを肩にかけ直し、再び、ゆっくりと歩を進めた。

 日向。
短く呼びかける。
すぐに、
 ――― お母さん?
と、返答があった。
思わず、笑みが漏れる。
同時に、熱いものがこみ上げてきた。
 ほとんどこの手で育ててやれなかった。
もっともっと、自分の手で育ててやりたかったのに。

 総士は、軽く前髪を掻き分けた。
今は、感傷に浸っている時ではない。

 日向。
再び、呼びかける。
と、日向の視界が脳裏に広がった。





 祐哉は、目の前の光景に息を呑んだ。
美久の機体が、フェストゥムの金色の触手に絡められようとしている。
接近しすぎたのだ。
 美久が動揺しているのは、祐哉にも分かったから、接近させないようにしていたにも関わらず、相手はその間隙を縫って素早く美久の方に手を伸ばしていた。

「栄治!」
「分かってる!」
栄治の返事もまた、短い。
銃撃に一瞬、相手が怯んだ隙に、素早く美久の機体を抱え込み、飛びのいた。
「CDC、聞こえますか?」
祐哉は、呼びかけながら、腹の底に力がたまってくるのを感じた。
呼びかけた声は、自分でも驚くほど、落ち着いていた。
「聞こえる」
剣司の声が響く。
「すぐにマークジーベンを下がらせてください。
姉ちゃんが言うこと聞かなかったらコックピットごと放り出してもいい」
「どうしたんだ? 何があった?」
「…動揺してるんです」
答えながら、心が、静かに、彷徨っていたものがゆっくりと沈んでゆくように。
凪いで来るのを感じた。

 「何があった、答えろ、祐哉」
祖父の、厳しい声がする。
祐哉は小さく笑った。
「姉ちゃん、動揺してるんです。…母さんたちが目覚めたから」
それだけ答えると、祐哉は目を閉じ、静かに、待った。
そっと、息を吐く。

――― 祐哉。
「父さん?」
祐哉は目を開け、微笑んだ。
喜びに、体が震える。
 いつか、この時が来ると、知るともなしに知っていた。
だから、待っていたのだ。




















John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/

2006/03/27