風の記憶






 
  白く砕ける波の向こうに、ぼんやりと慶樹島が見える。
 風に煽られる髪を手で押さえながら、美久は砂浜を歩き、堤防に向った。

 しばし、慶樹島を眺める。
それから、視線を落とし、広げた自分の手の平を見つめた。

 何故。

 いつも、ここに来ると、つい、手の平を見てしまう。

 どうしてもっと早く大きくならなかったんだろう。
どうして、時間はもっと、ゆっくり過ぎてくれなかったのだろう。

 美久は、もう一度、慶樹島を見つめ、ゆっくりときびすを返した。



 

 家に帰って、美久は時計を見た。
今日は、みんな、いつもより遅い。
 みな、今日はアルヴィスに行っている。
月に二回は、必ず、行く。
けれども、美久は一度も行ったことがなかった。

 行きたく、なかった。

 「ただいま」
日向の声に、振り返る。
「いつもより遅かったのね。もっと早いと思ったのに。先に食べちゃおうかと思った」
「また機嫌悪いな、姉ちゃん」
からかうような調子の祐哉の声に、かちん、とくる。
「あんた、早く洗濯してよ。やるって言ってたくせに」
「分かってる、すぐやるってば」

「お姉ちゃん」
「なに?」
静かな、日向の声に、少し恥ずかしくなって、努めて優しく問い返す。

「お姉ちゃん、なんでいつも来ないの?」
「行っても…しょうがないでしょ…」
日向の、大きな、陰りのない瞳を見るのが、辛かった。

「行っても…しょうがないじゃない…」
涙が溢れてきた。
「…なんで…もっと早く……手が…」
見つめた、自分の手の平が、ぼやけた。

「お姉ちゃん?」
「……」
耐え切れず、そのまま台所を放棄して駆け出していた。





 堤防から見える慶樹島は、夕闇の中、黒い影になって浮かんでいる。

 見慣れた景色だった。
ずっと小さい頃から、この景色を、知っていた。
 
 ――― 美久の手の平が大きくなったらね。

その言葉を、美久は、忘れたことがない。
今でも、鮮明に思い出せる。
あの時の情景も、優しい笑顔も、その声も。

 何でもっと早く手は、大きくならなかったのだろう。

 日向が生まれて半年が過ぎた頃、父は、突然に倒れた。
 その前から、おそらく、時間がないことに気付いたのだろう。
父は、よく、いろいろなことを語ってくれた。
 でも、その頃の自分はあまりに小さくて、語られることの半分も理解できなかった。

 何度も問い返し、その度、父は首をひねり、唸り、時に苦笑しつつ、言葉を変えては繰り返し、辛抱強く話してくれた。

 どうして、理解できなかったんだろう。

父が語ってくれたことが理解できたのは、本当に、つい最近のことだった。

 何でもっと早く。

 堤防から見える海岸は、暗く、寂しい。
木々の間を渡る、風の唸りだけが響く。
良く、父と遊んだ場所だった。

 黒い筋が入った貝が欲しかった。
それは、母の目の傷だったのだろう、と思う。

 自分でも良く覚えていないけれど、母の目の傷が、羨ましかった。
母と同じになりたかった。

 父が、誰よりも愛した、母と同じように。
誰よりも優しく、自分たちをこの上なく愛してくれた、美しい母と同じように。

 その母も、父が倒れてから程なく、同じように突然に倒れて、今は二人とも、アルヴィスの地下で眠っている。
 祐哉も、日向も、祖父に連れられて何度も会いに行っているけれど、美久は、行ったことがなかった。
行きたく、なかった。
見たくなかった。

 優しくて、時に厳しかった父の面影は、自分の記憶の中にだけ、留まっている。
それで、いい。

 それ以上は、いらない。
眠っている両親の姿など、見たくない。


 「…お姉ちゃん」
静かな声に、驚いて振り返る。
「…日向…駄目じゃない、暗いのに」
そう言った声が、震えていて、美久は慌てた。
「泣いてるの?」
「……うるさいわね…」
言いながらも、涙は止まらなくなっていた。

 本当に、もっと早く大きくなりたかった。
大きくなって、父の言うことが理解できていたら。

 「…だって…お父さん…嘘ついたもん」
「え?」
「…大きくなったら、って…私が大きくなったら…お父さんがいないんだもん」
まるで、慰めるかのようにそっと手を握ってくる日向の手の平の温かさに、余計に悲しくなった。
「…私…小さくて分かんなかったのよ…分かるわけ、ないじゃない…あんなに…チビで…」
「…お父さんも…謝ってたよ、ごめん、って」
「……え?」
「あのね。時々…お父さんの声、聞こえるの。
本当はなんて言ってるのか、わかんないの。
でも、きっとごめんね、って言ってるんだと思うんだ…」
「…なんで…」
日向は首を傾げ、しばし考えてから小さく首を振った。
「分かんないの、でも、そう思うの」
「……」
優しくて大人しいこの妹は、きっと自分を慰めようと懸命なのだろう。
「…うん…ごめん…」

 口数の少ない、この妹は時々、とても不思議なことを言う。
もっとも、いくら奇妙でも、美久はそれを疑ったことはなかった。
きっと、日向の言うことに、間違いはないのだ。

 「あのね、お姉ちゃん」
「うん?」
服の袖でごしごしと顔をこすりながら日向を見る。
「きっと…お父さんもお母さんも、帰って来るよ」
「……」
努めて笑顔を作り、日向の髪をそっと撫でる。
「…そうだね…ごめん…」

 ――― 美久、三人で仲良くな。

 父の言葉が、声の調子もそのままに脳裏に蘇って、再び、涙が溢れた。
 しっかりしなくちゃ。
そう思っても、両親ほど強くもなれず、逆に、いつもこうして兄弟に支えられている。

 「ありがと、日向…ごめんね」
日向は小さく笑って首を振った。
「帰ろうか…おじいちゃんも心配してるよね…」
「うん…あのね、ご飯、お兄ちゃんが作ってるの」
「あ…」
「お兄ちゃんも心配してるよ?」
「うん…」
また、涙が溢れてきて、美久は慌てて手の平で拭った。

 波の音と、風にざわめく梢の音だけが、響いている砂浜を、日向の手を握って家の方に向う。

 この道を。
砂浜から、石段を抜けて家に通じる、この道。

 この道を、父と、何度も通ったのだ。
その記憶は、確かに、ある。
 そして、それは弟や妹には、ない。
だから。

 今は、おそらく父の手の平の半分よりははるかに大きくなった手で、ぎゅ、と日向の手を握る。

 私が知ってるお父さんやお母さんの分も大事にするから。

 どれだけ、自分たちは愛されたことだろう。
そして、ずっと、愛していたかっただろう。
 だから、その分、自分が。

 すぐ横に、父がいるような気がして、美久は振り返った。
 背の高い草が、月の光の中、風に揺れていた。



 

 












John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/

2005/09/02