地中海・5






 
   消えない幻。その向こうの、炎の影。
焼き尽くされる街の、そこに住んでいた人々の、消えることのない嘆きと、慟哭。

 秀は顔を覆った指の隙間からその炎を見ていた。
 次第に遠くなっていく炎、自分をも焼き尽くそうとしているそれが何故か愛おしく思えて、見失いたくなかった。


 ここは新宿の街ではなかった。瓦礫の山はどこにもない。
やわらかな静けさと、穏やかな空気に包まれたこの部屋。
 ここは伸が住んでいる、ワンルームマンションだった。
やはり家を出て一人暮らしを始めた秀のマンションから歩いても五分はかからない。

 指を這わせてみて、自分がソファに凭れていることを知る。
そこに置かれたクッションをきつく掴み、額を抑えた指に力を入れて秀は立ちくらみが治まるのを待った。
 
 炎の夢を見るのは、今が初めてではない。
何度も見ている。
――― これを、夢というならば。

 「大丈夫?」
いつの間にか伸がそばに来ていた。頬に手を当ててくる。
「また気分悪くなったの? もしひどいんなら横になってな」
「…ああ…もう平気」
伸の手を掴んで笑った。まだ瞳の奥の残像は消えない。
「大丈夫だよ、伸」
伸はにっこり笑ってキッチンに戻っていった。

 ゆっくり呼吸を整える。少しずつ、現実が戻ってくる。

そうだ。今日は朝から伸に頼まれて買物に駆け回っていたのだ。
それで疲れたのかもしれない。
 秀はふと、落とした視線の先に花が咲いているのに気付いた。
紫色の細い花びらと、細い葉。小さな植木鉢に一つだけ、ぽつんと咲いている。秀はその、すっかり土まで乾燥して軽くなっている鉢を手に取った。
どこかで見た事のある花だった。

「なんだっけ、これ」
流しに向っていた伸が包丁を手にしたまま振り返った。
「秀が買ったんじゃないか、それ。サフランだよ」
軽快な包丁の音が響く。
「他にもいろいろ買ってさあ、結局それだけだね、花まで咲いたのは。あとみんな枯れちゃった。
ジャスミンもハイビスカスも…あと何だっけ、ブーゲンビリアかあ、あれも」
秀は植木鉢をそっと下ろした。小さな花が小刻みに震えた。

 言われて見れば半年ほど前に、何やかやと植木類を買った記憶もある。秀は自分の家に小さなオリーブの苗木があるのを思い出して苦笑した。

あの時、自分は何を思ってあのように植木や種や球根を買い集めたのだろう。


「さっき…少しだけど夢、見たよ、新宿の」
「…新宿…?」
「お前が足、怪我した…」
「ああ…」
伸の顔が軽く歪んだ。あの時の記憶は他の皆にとっても不可解で苦痛を伴うものだった。

 今でも、どこをどうして抜け出たものか、誰にも思い出せないでいる。秀は怪我による発熱と出血のために気を失った伸を抱えて夢中で走ったのだ。
 走った、ということしか、覚えていない。
果たしてあの奇妙な空間が本当に新宿の街だったのか、空間そのものが実在したのかどうかさえ、今となっては誰にも分からない。


「あっ、なべっ」
慌てふためく伸の声に現実に立ち返る。派手な音がして、ホーローの蓋が床を転がった。
「おい、割るなよ」
「分かってるよ! そんなのいいから少しは手伝ってよ!」
自分の失敗に苛立ってか、伸は金切り声を上げた。
「大皿出しといて。それとスープ皿」
「スープ皿はこないだ買ったヤツでいいのか?」
「何それ」
「何って…この前、買ったろ? ニンジンやジャガイモの絵が描いてある…」
「あ、僕が買ったんだっけ? 何でもいいや、じゃそれ出しといて。その辺にあるでしょ」
「ひでえな…」
 パーティ用の大皿を、ぶつけないように気をつけて取り出し、続いてスープ皿の探索にかかった。
秀は茶だんすの中を覗き込みながら小さく笑った。
 今日は秀のバースディ・パーティだった。その自分のための日に、自分が一番こき使われている。

――― パーティやってくれる、っていうだけありがたいけどな。

そもそも、自分でも忘れていたのだ。もうじき、皆もやってくるだろう。
 やっと目当ての皿を見つけ出し、洗うために流しに持っていった。
「な、今日はみんな泊まるんか?」
「多分ね。まだ休みだし」
伸はトマトを刻んでいた手を止めた。じっと秀を見、悪戯っぽく笑う。
「心配しなくても明日一日付き合ってあげるよ。そっちも大丈夫なんだろ? 夜も付き合ってやる。
だから体力残しときなよ。途中でバテたら殺す」
包丁をちらつかせ、にっこり笑った。
「そっちこそバテるなよ。面倒見てやんねえからな」
笑いながら伸び上がり、首筋に口付ける。

「おーおー、仲のいいこと!」
突然の、意地の悪い声に秀は飛び上がった。遼と当麻がドアのところでにやにや笑っている。
「いっ…いつきた、お前ら」
弾かれたように流しから離れる。頬に血が上ってくるのが感じられる。
「今だよ、鍵、開いてたからさ。来たとたん、帰ろうかと思ったぜ」
遼がくすくす笑いながら答えた。そんな中でも伸の包丁の動きは止まることもなかった。
「秀、ぼけっとしてないで料理、見張ってな」
手を休めることなく言う。
「頭の黒いネズミが来たからね、ぼんやりしてると苦心作が食い荒らされるよ」
慌てて振り返る。と、そこに、今にも料理に手を出そうとしている当麻の姿があった。
「やめろよ、てめえ! 何時間かかったと思ってんだい!」
長いこと煮込んで、ようやく完成したミートローフを、今食べられてしまってはたまらない。
「これはみんな揃ってから!」
「なんでえ、ケチ」
言いながらも、指先は皿から離れない。秀はその手を掴み上げた。
「いい加減にしろよ、てめえ」
「けど、なんだ、今日は秀が作るって言うからさあ、てっきり中華だと思ったのに」
指先についたソースを舐めながらいう。
遼も、頷きながらテーブルの周りをぐるりと回った。
「俺もそう思ってた。洋風も出来るんじゃん」
「決まってるだろ。日本料理だってやるさ」
「これは何、イタリア料理か」
「うん、まあ」
曖昧に頷く。
「正直、不安なんだ。今日初めて本、見て作ったからさ。
ところで征士は」
「じきに着くよ。…もうそろそろこっち、着く頃だ」

 テーブルの周りをうろついていた遼が、何を思ったか、急に、飾りが欲しいな、と言った。
そしてキッチンからアルミホイルを持ってきて、サフランの植木鉢を包み始めた。
とん、とテーブルの中央に小さな鉢が置かれた。
「お、なかなかいいじゃん。そう思わない?」
「花だったら征士が持ってくるってよ、遼」
そんな鉢、置かなくていいのに、という伸の言葉を、遼は無視した。
「こっちの方がいいさ、なあ?」
秀に同意を求めてくる。
「何でこの花が」
「いや、何となく」
ポリポリと鼻の頭をかく。自信なさそうに、変? と聞いてきた。皿の向こう側から花を眺め、位置を直しながら、
「昨日さ、面白い夢、見たよ」
と言った。

「前のさあ、覚えてるか? 新宿の」
ぎくり、と振り返る。遼も、あの時の夢を見ていたのか。
少し首を傾げ、ぼんやりと花を眺めている。

「あん時さあ、走って逃げたろう? でも夢ん中じゃ、逃げずに、あの変な蜃気楼みたいなとこ、入ってくんだ。
それでな、俺、何故か馬、引いてんだよ。林の中かなあ、木がいっぱい茂ったとこ」
 それは、言葉どおりに聞いていればひどくのどかな風景には違いない。しかし、秀にはとてもそうは聞こえなかった。
「…それさあ、燃えてる街とか、そういうのはない?」
「いや。なんで?」
「俺も新宿の夢、見るんだ。…俺のはさ、いつも街が丸ごと燃え落ちるっていうか、そういうの、見るから」
遼は少し考え、いいや、と首を振った。
「俺はそういうのは見ない…って言ってもさ、あの時のこと、夢に見たの昨日が初めてなんだ。
…燃えてる街、ってのはなかったけど、海ならあったよ。港から船に乗り込もうとしてるんだ、俺。どこに行くつもりだったのかなあ」
夢の中の自分を懐かしむように、小さく笑った。
「誰かの手を引いてさ、誰だか分かんねえけど」
「…新宿から抜けて船に乗る、っての、おかしくねえか?」
「そりゃ、おかしいよ、夢だもん」

それは、そうだ。夢の中なら、どんなことも起こり得る。
そして、何が起ころうとも、夢の中の自分はそれを不思議に思うことなど、ないのだ。

「俺さあ、起きてから笑っちゃったよ。新宿で駆け回った時ってみんな必死だったじゃん。
それが蜃気楼に飛び込んだとたん、のんきに馬、引いてんだぜ。
で、そのまま船旅に出るんだもん」
思い出しても可笑しい、とくすくすと笑った。
「誰といたのかなあ。誰かとすげえ親しそうに話してんだよな。
誰だったんだろう」
秀を振り返って笑った。
「もう一度見たいよ、あの夢。面白かった」

秀は笑顔を返しながら、自分ならごめんだ、と思った。
もうあの夢は、見たくない。

 今でも繰り返される、果てしのない、何故。
人々は叫ぶ。何故、と。何故、この国が、と。
 その叫びは、耳の奥にこびりついて離れない。
そして自分は、答えを持っていなかった。
なんと答えることが出来よう?

 自らの良心の痛みと戦った自分と、そして起こり得るかもしれない、未来への恐怖と戦っていた彼ら。過去の亡霊に怯えていた、彼ら。

 秀は自問した。
 自分たちに、似てはいないだろうか。
答えは、ない。

 今でも、瞳の奥に残る、天を焦がす炎。
その中に消えていった人々。
暗い視界に、異様なほどはっきりとその色を見せた友の血と、その中に咲いていた、小さな花。

――― 子供たちよ。我らはこのようにしか、生きられなかったのだ。

語りかけてきた声が、懐かしかった。
 懐かしくて、そして、悲しい。

――― 笑うか、我らを。

他に、道はなかったのだろう。
道はあった、と思うのは、後世の者だ。
 新しく年は巡り、時代は変わり、時代の観念も変わってゆく。新しい概念が生まれ、古いものは葬られあるいは否定される。

 戦い、死んでいった者たちを、否定することは容易い。
その中に、身を投じたことのない者にとっては、それは実に容易いことなのだ。
 けれど、誰に分かるというのだろう。
炎の中で焼き尽くされる人々、多くは老人や子供、あるいは女たちだった。
 彼らの嘆きは、誰に届くのだろう。
どこにゆくのだろう。
負けると、分かっていたのだ。
 それでも、戦うしか、それしか見つけられなかった人々の声は、どこに届くのだろう。
 たとえ過ちであったにしろ、それしかなかったのだ。
勝つことのない、戦争と分かっていて、自分たちはそこで死ぬと分かっていて、それでも―――
 それでも、最後まで戦い抜こうとした、その胸の奥の悲壮な叫びは誰に届くのだろう。

彼らは静かに生きていたかっただけなのに。
戦いなど、望んだことはなかったのに。
 なのに、何故。
生きることが、許されなかったのだろう。



 征士が、花を抱えて到着し、小さな部屋の中は一段と賑やかになった。
「似合わねえな、お前」
当麻が大声で言って笑い出した。
「女のとこならともかくさあ、秀の誕生日だぜ?」
「何言ってんのさ」
伸が、やはり笑いながら返す。
「征士は秀にプロポーズしに来たんだもん。ねえ? 花束くらい、持ってこなくちゃ」
あまりな反応に、征士は赤くなって言葉もない。
「いや、そんなつもりはないが」
「当たり前じゃないか、ただの冗談だよ」
にこりともせずに切って返した伸に、征士はますます口を封じられてしまったようだ。
「そう苛めるなよ」
遼が、笑いながら花束を秀に渡した。

 ろうそくの炎が揺らめく。
それを、吹き消そうとして、秀は胸に何かがつかえて泣きそうになった。
 ろうそくの向こうに、先ほど遼が飾ったサフランの花が見える。
 炎の赤さは友の血を、そして滅び去った街を思い起こさせる。
燃え盛る炎の中、泣き叫ぶ子供たち。それを抱き締める女たち。
兵士に踏みつけられる老人の、痩せた背中が、動かない、細い腕が。
 時の流れに否応なく巻き込まれる人々には、それに逆らうことは出来ないのだ。歴史とは、そうしたものだ。

「秀、どうしたのさ」
伸の叫びに、押さえられた手首に、我に返る。
「いや、どうもしない」
自分が泣いているのだと知って慌てた。
「どうもしない」

 それでも、揺らめくろうそくの炎は、過ぎ去った時を見せ続ける。
何のために。
 何のために戦うのか、誰のための戦いか。
誰か、答えて欲しい。
 胸が、切り裂かれるように痛む。
戦って、それでも。
誰一人、救えなかったではないか。

 それは分かっていても、戦っても誰も救えないと知っていても、あのようにしか、生きられなかった。その悲しみを、誰が知るのだろう。
今を生きる者たちの、誰が知ろうか。
 粗末な甲冑を纏い、向ってきては倒れた若い兵士の、あるいは炎の中で死んでいった人々の悲しみと嘆きを知ってもなお、笑うか。
 誰が、戦いたいと願うか。
いくさになれば、どちらかが死ぬのだ。殺さなければ殺される。それは、今も昔も変わらない。

 そして、今も昔も、誰も人を殺したいとも、あるいは殺されたいとも思わないのだ。


 手首を引かれ、ソファに寝かされる。目を開けると、そこには征士の顔があった。
「今日はあまり具合が良くないそうだな」
そして、テーブルの方をちらりと振り返った。
「あの花のせいか?」
「どうして…」
征士はまだ、手首を握ったままだ。時おり、皆の方を振り返る。
伸は包丁を振り回し、ケーキ、先に食べてるよ、と言って寄越した。
「でないと当麻がうるさいんだもん。秀の分、とっとくから、一番大きいの」
「…すぐに良くなる。伸、小皿出すんならテーブルの飾り、どけてくれ。邪魔だろう?」
秀の代わりに、征士が答える。伸は一瞬、きょとん、としてから、
「あ、これね。うん、片付ける。
…秀はさぁ、もう、今日だけで三度目かな、気分悪い、っての。少し寝た方がいいよ」
 伸はケーキを巡って騒いでいる当麻たちを制しながら、テーブルの上の鉢植えを窓の方に移した。

 「あの花がお前に」
征士は言い掛け、じっと見つめてきた。

 何故、彼は急にそんなことを言い出したのだろう。
胸の内の疑問に答えるように、征士は独り言のように呟いた。

「…あの花は…好きじゃない。…あの時、お前たちの周りで咲いていた」
どきん、と心臓が大きな音を立てた。
「新宿で蜃気楼を見た時からだ。あの時からずっと…あれは夢でもなんでもない、現実だ」
「お前…それじゃ、お前…」
「お前がどんなものを見ているかは知らん。でも多分、同じだ。ずっと昔の話だ」
手首を握る指に、力がこもる。
「伸は気付いてない。…多分。何も知らない方がいいかも知れん」
「…当麻は…?」
こういうことなら、おそらく真っ先に気付くに違いない彼が、そんな様子は微塵も見せていない。

征士は目を伏せて微笑んだ。再び、テーブルの周りで騒ぐ三人を見る。
やがて振り返り、小さく、それでもはっきりと言った。
「あいつは…私たちとは感じ方が違う。仮に思い出せたとしても――― 目が見えなかったから」
「……」
秀は呆然と、窓際を見た。そこには、鉢植えのサフランがつくねんと置かれている。

 時おり、気掛かりな様子でこちらを振り返る伸。
切り分けた肉が大きいの小さいのと騒いでいる、当麻と遼。
その騒ぎの向こうで、窓辺に置かれた花は寂しげに見える。

暗くなった窓のガラスに、サフランの花が映る。血溜りの中、ぽつりと咲いていた、可憐な花。
 それは、やがて訪れるであろう、静かな未来を、子供たちの平穏な生活を知らせてくれていたのだろう。

――― 子供たちよ。

あの声が、語りかけてくる。

――― 笑うか、子供たちよ。我らはこのようにしか、生きられなかったのだ。














                           FINE





  

John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/

2008/10/01
 2000年8月初出