地中海・4






 
  
  彼方から、轟音がかすかに聞こえる。
リュシアスは横たえていた体を起こし、幕を上げてみた。
わずかに、港の方が明るいだけで、他には何も見えない。
 「どちらの方か…風で音の方向が分からない」
フェルミオンは目を上げただけで答えなかった。


 マルティスが今夜の奇襲のことを告げたのはつい先ほどのことだ。どこか、他の部隊が奇襲をかけるらしいという。
 今さらそのようなことをしても、何の役にも立たないのは分かっているだろう。こちらの戦力をいたずらに消耗するだけかもしれない。

「少しでも望みがあるから」
マルティスは美しい、長いブロンドを跳ね上げ、言った。
戦いの時につける、重い、黄金の首飾りと耳飾りが大きく揺れた。
「何もしないで明日を待つよりいいだろう。何しろ向こうは国が遠い。新たな部隊が到着するより前に少しでも叩きたい」



 リュシアスはキタラの音にからだを浸し、マルティスの言葉を、記憶の奥に埋めた。
今は、戦いのことは忘れて、フェルミオンの奏でる弦の響きだけを感じていたかった。
力強く韻を引く音の間を細い弦の音がやさしく、やわらかく流れる。それは高くなり、低くなり、ある時は細くまたある時は強く、まるで弾力のある渦のようにからだを包み込む。

 時おり、その間を縫って轟音が響く。それらは確かに、少なくなりつつある時をリュシアスに教えてくれた。
どうあっても、この都市は、豊かな暖かい国は、これ以上、ここにあることを許されないらしい。


「お前がまだ少年だった頃を思い出す」
フェルミオンが弦を弾く手を休めることなく呟いた。
その顔には、笑みが浮かんでいる。
「よくこうして――― 田舎のあの館で――― お前に教えたものだった」

すべてにおいて、フェルミオンは優れた教師だったといえるだろう。それまでにもリュシアスは学校に通い、音楽や詩、古典などは習得していた。それでも楽器は苦手なところだった。
 フェルミオンは懐かしそうに微笑んだ。
「お前はまだ本当に…子供だった。首も細くて美しかった。
今も当時とさほど変わっていないが」
音が、止んだ。
フェルミオンは静かに立ち上がり、リュシアスが横たわっている寝台に腰を下ろし、顔をのぞきこんできた。
 今でも、遠くから、海鳴りのような音が聞こえてくる。

「…奇襲は…成功するだろうか」
「分からぬ」
フェルミオンの手の平が、ゆっくりと頬を撫でてゆく。
「戦いのことは今は忘れるがいい、リュシアス。そのために私は弦を弾いたのだから。お前に聞かせ、心を静めようとて」
「私は充分に落ち着いているよ、フェルミオン」
 事実、明日は最後の戦いになるだろうというのに、心の中は驚くほどに穏やかで、静かだった。

こちらを見つめるフェルミオンの瞳も、静かな、やわらかな光をたたえている。
そのまま、どちらからともなく口付け、時を忘れて抱き合った。

分かっていた。
明日の夜は、もう来ない。
フェルミオンの肌のぬくもりを感じるのも、その声を聞くのも、これが最後だ。
時はそれでも確かに、静かに過ぎてゆく。



 そして、夜が明ける。
ところどころに浮かんだ雲は流され、白い筋を描いて、城壁を越え、消えてゆく。
すでに奇襲を受けたところからは黒い煙が上がっていた。
その向こうには、どこまでも青く、美しい地中海が広がっていた。



 地を揺るがすようなおめきと、蹄の音。
リュシアスは迫ってくる者どもの、兜と胸あての、僅かな隙を狙って槍を繰り出した。
 一人、また一人と倒れてゆく。
ゆっくりと、崩れるように倒れてゆく敵の、絶望に見開かれた瞳は、リュシアスの胸を締め付けた。
 それでも敵に追い迫り、剣を振り上げる。


 今、眼前に迫り来る敵兵の顔を静かに眺め、思うことは彼らが息子たちの前に現れることのないように、と、それだけだった。
――― 貧弱な鎧だ。
目の前にいる兵士の、体を守るはずの鎧は、リュシアスの目にはひどく脆弱なものに映った。
案の定、一振りで兵士はリュシアスの剣に倒れた。

「お前たちは」
倒れた兵士に目もくれず、次の兵に剣を向ける。
まだ若いその男は二、三歩後ずさった。
「自分たちの子供らにその姿を誇るのか」
傭兵だろうか。言葉が分からないのか、彼は及び腰ながら剣を構えた。
――― なんと粗悪な作りだろう。
リュシアスはふと、微笑んだ。
 この国を滅ぼすのではなく、技術を学べばよいものを。

 鋭い音と共に、折れた剣は弾き飛ばされ、同時に、兵士の姿は視界から消えた。
 代わりにリュシアスの目に飛び込んできたのは、フェルミオンの馬が狂ったように跳ねて隊列から外れてゆく姿だった。
どこか切り付けられたのか、血飛沫を散らし、やがて、どう、と倒れ、フェルミオンの体が放り出される。
フェルミオンは這うようにして馬から離れ、肩を押さえながら林の方に行こうとしている。その肩や脇腹から血が地面に筋を描いていた。

それ以上は、見ていることが出来なかった。
敵が迫ってきていた。
――― フェルミオン。仇は取る。
あの傷では、まず助からないだろう。

 突然、妙な虚しさに捕らわれる。
この戦い、これは何のために、誰のために行われているのだろう。
自分は、誰のためにこうして剣を振るっているのか。


 次第に音が遠ざかる。
この静寂は、これは何なのだろう。

 兜の隙間から、相手の顔が良く見える。
目を血走らせ、大きく口を開けて向ってくる彼らの、ひとり一人がたまらなく愛おしい。
 ひとり一人に問いたかった。
妻はいるか、と。子は? 幾つになる? と。
ゆっくりと振り上げた剣の先も、真っ赤に染まっている。
倒れてゆく若者たちに問いかけたかった。
何のために戦っているのだ? と。
 国には、おそらく老いた両親が残っているのだろう。
あるいは、いくらも褥を共にしていない、若い妻が。

 明らかに異国のものと分かる服装をした者がいる。
彼らにも問いたかった。
何を求めて、この戦いに加わったのか、と。
 異国人のために、異国人と共に、そして異国で命を散らす。その名誉を見届ける者はいるのか?
故郷に、その死に様を報せてくれる者はいるのか?
いかに勇敢であったか、その雄々しさを、子らに伝えてくれる者は、いるのか?

 異国の傭兵が倒れるのを目の端に捉えながら再び剣を振り下ろす。倒れた敵に目をくれるいとまはなかった。
ひとりでも多く倒すことだけを考えて剣を振るった。

 フェルミオンの復讐のためではない。
もとより、こんな雑兵たちの血であがない切れるものではないのだ。
出来る限り、力を削いでおく。そのために、一兵でも多く殺す。
そうして彼らは今回の出征の代価がいかに大きかったか、思い知るだろう。
 すでに勝敗は明らかだった。
それでも。
彼らに知らしめてやらねばならない。
今、まさに消え行こうとしているこの国の、人々の悲しみと、怒りを。

 人は、何と勝手なものだろう。
城壁の中に残っている女や子供、老人たち。
その中には十年間ここで過ごした自分たちに親しくしてくれた人々、友人たちがいた。
彼らを悼みながら、彼らのためにこれ以上のことが出来ないことを嘆きながら、それでも――― その中に自分の子供たちがいないことに安堵もしている。
 わずか十年暮らしただけのこの国のために戦おうとしているのは、あるいはその良心の呵責からかもしれない。
 今、戦うべき相手は、眼前に展開しつつある兵士たちではなく、己の偽善ともいうべきものかもしれなかった。

 胸の奥が、きりきりと痛む。
その痛みは、先程からずっと続いている。
痛みを振り払うように、リュシアスは向ってきた若者目がけ、剣を振り下ろした。
それは違うことなく兵士の首を切り裂き、紅い飛沫を散らした。
まだ若い兵士だった。息子と同じか、もう少し年長か。
――― いずれの御神か、私をこの戦に駆り立てるのは。
リュシアスは天に問うた。返事など、あろうか。


 再び、問う。
――― 何のために、あるいはどのような気紛れを起こされたもうたのか。
 刹那、青い空が見えた。
続いて、視界が真っ赤に染まる。
どこかで、フェルミオンが叫んだような気がした。

 辺りは暗く、音も遠い。
暗いのが、目に流れ込んだ血のせいだと、だいぶたってから気がついた。
 リュシアスの馬は、林に向って歩き続けている。
行く先を知っているかのように、少し早足で、迷うことなく進んでゆく。
 このまま任せておけば良い。
この、素晴らしく足の速い、立派な馬はリュシアスを彼の行きたいところへと運んでくれるだろう。
 オリーブの木陰でフェルミオンが座り込んでいる。
その横で、馬は足を止めた。
馬から降りるなり、体から力が抜けたようだった。
もう、動けそうになかった。


 隣に、フェルミオンがいる。リュシアスはゆっくり辺りを見回した。
 ここは、オリーブの林の端だった。
あたり一面、死者が横たわっている。まだ息のあるものが身動きし、何とか立ち上がろうとしている。

 「リュシアス」
フェルミオンが擦れた声で呼びかけ、頭をもたせ掛けてくる。リュシアスは重い腕を上げてその肩を抱いた。
 すでに立ち上がる力は残っていなかった。
目に流れ込む血を拭い、マントを引き寄せる。マントも、血で重くなっている。
 胸元にフェルミオンの浅い呼吸が伝わってくる。その肩が少し動いた。
「…リュシアス……後世の人々は……笑うであろうな、私たちを」
「そう…かも知れぬ…」
小さく笑って遠くに燃える街を見つめる。
 笑うのも、辛くなっている。少し動いただけで、胸の骨がぎしぎしと締め付けられるように痛む。
「……だがな、リュシアス……」
友の声も、少しずつ弱々しくなってゆく。
リュシアスは長いこと師であり、また恋人でもあった友の肩をさらに抱き寄せ、冷たくなった頬をさすった。
「………私は…ここにいてよかったと思っている…父のもとへ帰れなくとも…」
リュシアスは頷いた。
「あの国には…帰る必要はなかろう……」
フェルミオンが少し笑ったのが炎に照らされて見えた。

 あの国には――― 二人が生まれた国にはここと違い、未来はあるだろう。
しかし、もう、かつてのように輝くことはないだろう。
 積み重ねられてゆく時に埋もれ、ひっそりと往き続けて行くだろう。
もう、英雄は生まれない。

輝かしい過去の残骸に埋もれて生きてゆく街と、こうして最後の瞬間にまばゆいほどの光を放ち、そして何も残さずに消えてゆく、街。

 誰かが近寄る気配に、目を上げる。あのガリア人の傭兵隊長だった。
「探したぞ、大事はないか、お二人とも」
すぐに兵士を呼び、手当てをしようとする。
フェルミオンは小さく首を振った。
「もうよい…ありがたいが…」
「動けぬか?」
フェルミオンを、そしてリュシアスを、覗き込む。
リュシアスは微笑んだ。
「よくぞご無事であられた…これからどうなさる」
「我々は」
後ろの兵士たちを振り返り、燃え盛る街を見た。
「国に戻る。海を渡って」
そして、と力を込めて言った。
「北から奴らを叩く。私の国は彼らの国を取り巻くように散らばっている。仲間を呼び集め、奴らを叩き潰してくれる。
だから探していたのだ。ともに来てはくれまいか」
「どうか」
友の声は少しずつ弱く、小さくなっていった。
「もう…静かにしておいてくだされ…ひどく疲れている…このまま黄泉に旅立つも悪くはない…」
困惑したような隊長に、リュシアスも頷いて見せた。

「それなら」
マルティスは、もう、すべて悟ったらしい。
フェルミオンの肩を掴み、トアスに何か伝えることはないか、と問うた。
「何としてもご子息を捕まえてみせよう。何か言づてなりと」
「ああ、それなら」
微笑み、リュシアスを振り返った。
「とく、国に戻るように、と。国ではこの…リュシアスの姫君が待っておられる。花嫁衣裳をこさえてなあ。
…あまり待たせるものではないと…そう伝えてくだされ」
「そなたは」
「同じだ…気掛かりは国もとの子供たちのことのみ…この父を忘れるな、と…それだけでよい」
「分かった」
そして、急に思い出したように傍らの兵を呼び、短剣を取らせ、二人の髪を切った。
「これも忘れずにご子息にお届けしよう」
マルティスは立ち上がり、街の方を見た。
「……奴らはすでに街中に入っている…子供たちを城塞の上から投げ落としている……」
そこには、ついに彼らを食い止め得なかった苦渋の色が滲んでいた。
「私はこの街のことは忘れぬ。……この屈辱も」
振り絞るような声で、誰にともなく呟く。
「お二人のことも…忘れはせぬ…」
静かにそう言うと、生き残った僅かな兵士たちを率いて駆け去っていった。


 その姿が林の向こうに消えた頃、再び街の方から轟音が響いてきた。
まだ抵抗を続ける人々の叫び声がかすかに風に乗って聞こえてくる。
やがて、それも消えるだろう。


街を包む炎の中に、リュシアスはまたも、あの子供たちを見つけた。リュシアスの目には見えない敵と戦っている子供たちを。

「フェルミオン…また幻が見える」
返事はなかった。
再び呼びかけようとして、思い止まった。
 今呼んだら――― 今、友の名を口にしたら何もかも崩れてしまう、そんな気がしたのだ。
リュシアスはつよく唇を噛み締め、そっとマントを引いてフェルミオンの体を包んだ。

 すべてが、運命によるものだったのだろう。
神々が定めた通りに従った、しかし、自らの意志を持って。
だから、今、与えられた定めに対し何の恨みもない。
神々がどれほどに悪戯好きで、気紛れだったにしろ、必ず、そこには何らかの深い思慮があるのだろう。

――― 子供たちよ。
幻は、炎を共にゆらゆらと揺れて見えた。
――― 笑うか? 従順に過ぎたわれらを。

少年たちの顔がよりはっきり見え、代わりに崩れゆく街が霞んでくる。

――― 我らはこのようにしか生きられなかったのだ。
目に、血が流れ込んで視界をふさいだ。しかし、それを拭うだけの力も、今はもう、ない。

――― このようにしか、私たちは生きられなかったものを。子らよ。
薄れゆく意識の中で、幻は、より鮮明に、その姿を映し出す。

 そうすること――― 戦うことが、子供たちに与えられた定めだとしたら、戦うが良い。

まだ年端もゆかぬ少年たちの顔に、トアスの姿が重なってリュシアスの胸は痛むけれど。

それでも――― 幼くとも、与えられた定めに気付いたなら見事、そのように生きて見せよ、子供たちよ。

役割に目覚め、動き始める。それだけでも、愚かな者たちには成し得ないことなのだから。

 そこに、海に浮かぶ小さな島に残してきた息子の姿が重なる。
国を出たときは、まだ小さかったあの子も、いずれは戦士として自分と同じように戦いに身を投じるのだろう。

 リュシアスは空を見上げた。
ぼんやりとしか映らない、空。この想いが、空を駆けて子供たちに届くように。

 彼方から、轟音が轟く。
この国は、失われるのだ。
そして、音は消える。
 リュシアスはゆっくりと辺りに視線を巡らせた。
静まり返った世界、音も色彩もない中で、フェルミオンの体にこびりついた血の赤だけが鮮明に目をついた。
いつも、世界がこのように静かであれば、と願っていた。


その世界が、ゆるやかに回る。
地面にたまった血の中で、小さな花が揺れている。
これは、なんという花だったか。細い葉と、細い花びらを持つ、薄紫色の花。

揺れる花びらは、暗くなってゆく視界の中で姿を滲ませ、やがて消えていった。








 
 



 


John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/

2008/10/01