地中海・3






 
    ――― 悪人、か。
馬の歩をゆるめ、考えに沈む。
右手に見える夕映えの海に、妻の横顔が浮かぶ。

 彼女の国とは、長く戦争の歴史しか持てなかった。
父が十何年も攻め倦んだ国だ。
そしてフェルミオンの兄は激戦のさなか、彼女の一族に惨殺され、フェルミオン自身もまた、その後の戦争による負傷で片足が不自由なままだ。
 フェルミオンにとって彼女は、悪に連なる女であったろう。
その一族が滅び、女たちが連れてこられた時、一番喜んだのはフェルミオンの一族だった。

 女たちにとってはどうであったろう。
リュシアスの妻にとっては、先の夫やその一族、実家の一族まで殺したリュシアスの父は憎んでも飽き足らないほどの悪人だったろう。
もちろん、その息子であるリュシアスも。


 「リュシアス、どうした。暗くなってしまうぞ」
少し先で、フェルミオンが馬を止めて待っていた。急いで追いつき、馬を並べる。

「何を考えていた、幻のことか?」
「いや…妻を思い出していた。あれの…末の弟は確か六歳だったと聞く」
フェルミオンの視線を感じながら暗くなってゆく海岸線に目を落す。

 崖から突き落とされ、砕かれた小さな体は、川の水で洗い清められ、その無残な姿が母親の目に触れぬ内に、と、布できっちりとくるまれ、その日のうちに埋葬されたと聞いている。

「フェルミオン…悪とはどのようなものであろうな。
戦うもの同士どちらも…自分が悪だとは思わないだろう。そうだとしたらどちらも正義だろうか」
しばし考えたのち、フェルミオンは首を傾げた。
「さあ…な。私には分からぬ…ただ…」
言葉を切り、わずかな陽光にきらめく海を見つめる。
「人は誰しも…己れの正義のために戦う。だとすれば…どちらも正しいのだろう。そしてどちらも悪であろうよ。
…それよりも私は彼の国の果てに興味がある。ここはいずれ、滅びるだろう。その果てに…あの国は何をするつもりであろうかな」

 完全に降伏した国を、なおも攻め立てようというのだ。
人々が分からないのは、まさにそこだった。
 この国はやがて滅びもしようが、向こうもまた、無傷ではない。
すでに長い年月の間に、多くの犠牲を払っているのだ。

 「ここを手にすれば、この海はすべて彼らのものとなる…。
だが、そこまでして手に入れたもので…彼らは何をするつもりだろうか。その果てに何があるのか…それが知りたい」
 豊かでありたいと願うのは、いつの時代も、どこの国も同じだろう。そして、その欲の向こうには、何があるのだろう。





 オリーブの林が白い花に彩られる頃、二人はフェルミオンの息子、トアスと再会を果たすことが出来た。
マルティスが部下に探させていたという。

 オリーブの林に姿を現したマルティスは、後ろに控えた、馬を引いた青年を手招きした。馬には白い衣装を着た男が乗っている。
彼が、アカイアの国からやってきた神官だという。

青年は神官が馬から降りるのを手伝い、その足を洗い清めている。
そこには、彼に対する敬慕の念が滲んでいる。卑屈な様子は少しもなかった。

「どうされた」
マルティスが不思議そうにフェルミオンに声をかけた。
「そなたのご子息であろう。それとも私の勘違いであったろうか。お人違いであったか」
「……いや……」
そう答えたのはリュシアスの方だった。
フェルミオンは、声もない。

無理もないだろう。五歳の時にさらわれた子供と、実に十年ぶりの邂逅だった。
 トアスは見違えるような素晴らしい青年に成長していた。
黒々と輝く、美しい髪と、情熱的な光を持つ黒い瞳、引き締まった、素晴らしい肉体とそれを包む、日に焼けた肌。

「これが私の息子か、あの、幼かったトアスか」
フェルミオンは声を震わせ、目の前の青年を眩しそうに見つめた。
「なんと私は老いてしまったことか、あの子がここまで大きくなってしまったとは」
嬉しさを堪えきれない様子で微笑み、首を振る。
「覚えてはおらぬだろう。私は何一つ、父親らしいことはしてやれなんだ…生きていたことを確かめるしか」
「いえ」
トアスは静かに答えた。その低い声すら、驚きだった。
 あの震えているだけだった、小さな子供は、ここにはもう、いない。

「私の足はよい、父のもとへ行きなさい」
神官は足を洗うトアスの手を取り、静かに言った。
穏やかで、威厳に満ちた声だ。年の頃はまだ若い。
目が見えないということだったが、その仕種はまるですべて見えているかのようだ。
 トアスは躊躇いがちに、それでも興奮を隠せない様子で神官のそばを離れ、フェルミオンの傍らに寄った。
「ああ、確かに覚えています、父上、そしてこちらの叔父御も」
リュシアスは微笑んだ。トアスは小さい頃からリュシアスのことを叔父御と呼んで親しんでいた。

「良く生きていられた、よく…」
声を詰まらせたフェルミオンに、トアスは、
「父上のおかげです」
と、答えた。
「父上が付けてくれた奴隷のおかげで生きられました。
――― 私の息子の振りをしなさい、と。奴隷の子ならば殺されることはなく、奴隷として生きていける、生きてさえいればいつか父上に逢える、と」
「ヒッポリュトスのことか。彼はどうした、だいぶ歳がいっていたが」
「はい、もう五年前に」
少し悲しそうに目を伏せる。呟くように続けた。
「でも長生きをした方だと思います。……いつか父上に私を……私が父上にお会いするのを確かめるまでは死ねない、と。いつも言っていました」
「……そうか…」
フェルミオンも俯き、小さく息をついた。

 いつもトアスに付き従っていた年老いた奴隷は、リュシアスも良く知っていた。
五年前に死んだということは、七十を越えていただろう。確かに、長生きした方だ。


 マルティスが遠慮がちに歩み寄ってきた。
食事の支度をしてくれたらしい。
やがて、みな、オリーブの木陰に腰を下ろし、食事を始めた。

 神官の名はテオファスといった。
この国に、書物を求めてやってきたという。
 帰る頃、連れてきていた奴隷や、一緒に旅をしていた仲間たちが次々と病気になり、死んでいった。残った二人の奴隷だけを連れてこの街に入り、トアスと出会ったという。

「奴隷たちから…どうもアカイア人らしい、と聞いていろいろ話を聞いてみました。そしたら子供の時にさらわれたものの、まだ言葉も覚えている、国の父親の名前も分かるという…」
テオファスは水色の宝石のような瞳を動かし、微笑んだ。
「私は、だから彼を連れて帰ることにしてその家から買い取ったのですよ。道すがら、勉強も教えながら」
今度はフェルミオンが微笑んだ。
「それはなんと礼を申していいものやら…。なんとありがたいことでしょう。どうかそのまま傍で勉強を続けさせ、国に連れ帰って頂きたい。この父からもお願いいたします」
「それはどういうことですか、父上」
それまで黙って食事をしていたトアスが驚いたように顔を上げた。
「私はこのままここに残るつもりです。そして父上や叔父御と共に戦います」
「それはダメだ、トアス。お前は国に帰れ」
「何故です? 何故、父上についていってはいけないのですか?」
頬を紅潮させて叫ぶ。
フェルミオンは静かに微笑みかけた。
「どうか父の言うことを聞け、トアス。この国の様子を――― テオファスどのとともによく見ておいて欲しい。
この国の滅ぶさまを、我らの死に様を。
そして国に戻って伝えて欲しい」

 そして皆は知るだろう。
 かつて、国中の競技会で多くの栄冠を得、乙女たちの、そして少年たちの憧れの的であった男の最期を。
 彼らは知るだろう。
この地中海を長く支配し続けた国の終焉を。


 テオファスの水色の瞳を見つめながら、リュシアスはいつもの幻のことを思い出していた。
 ふと、疑問をぶつけてみる。
正義というのは、果たしてどちらにあるのか、と。
テオファスは小さく微笑んだ。
その光を捉えていないはずの瞳は、それでも何もかも見通しているかのように輝いていた。

「…どちらにも」
短い答えだった。
「神々はいつも、どちらにも正義を用意しておられるようだ…つまり、勝った方に与えよう、と。いつもそのようなもの、人間は神々の駒の一つに過ぎない…」
軽く首を振って、静かに続けた。
「神々はいつも悪戯がお好きで時に人をひどく迷わせる。けれど人もまた、特に戦争をしている国の人々はまるで夫君の浮気を知った女のよう。
ただ夫を責めるのみ、自らに非があっても、けして認めようとはしないもの…」
そして、私には妻がいないから分かりませんが、と付け加えて笑った。
「…正義の女神はそれでも大変気紛れゆえ、ひいきの国に対してもいずれは飽きてしまう…」

 マルティスが合図を送るのが見える。
もう時間なのだろう。
 テオファスもそれを察したかのように顔を上げ、
「後世のものが決めるのでしょう」
といった。
「今、ここにいない者たちが決めるでしょう」
「おそらくそれは間違っているだろう」
リュシアスは立ち上がり、マントを羽織った。

自分たちの戦いを知らぬものが、この街の人々の悲しみを知らぬ者たちが、何を決められるというのだろう。
「歴史とはそういうもの、リュシアスどの」
胸のうちの呟きを聞いていたかのように、テオファスが微笑みかける。
リュシアスは小さく息をついてテオファスの手を取り、立ち上がるのを助けた。
「どうか詳しく書き留めて欲しい、この国のことを」
「はい、力の限り」
若い神官は力強く頷いた。


 この近くからは、すでに船を出すことは出来ない。
一行は内陸を回り、砂漠づたいの道を西に進み、その、西の果てから海を渡るという。
安全なところに出るまで、マルティスの連れてきた兵士たちが護衛についてくれるという。
「安心されよ、すでに屈強の者どもを選んである。途中、海を渡ればそこは私の故郷だ。仲間たちがいる。そうなれば何の心配もいらぬ」
ありがたいことだった。しかし、決戦を前にした大事なときに、こんなに多くの兵を割くわけにはいかない。
 リュシアスとフェルミオンはマルティスに、兵の数を半分に減らすよう、懇願した。
さすがに、まったくの護衛なしでは国を出ることは出来なかった。

 フェルミオンはまだ不満そうなトアスの肩を叩いた。
「お前のお爺さまたちに伝えておくれ、トアス。
あなたがたの息子は決してあなたがたの名を辱めるようなことはなかった、と。
…お前をここまで育ててくれたこの国のために戦うのも悪くない。
婚礼が見られないのが残念だがな」
低く笑い、トアスの背を押した。

「さあ、行くがよい。もうお別れだ」
トアスの顔が歪む。促されるままに、トアスは馬を引き、オリーブの林の中を歩き始める。
その姿が林の影に消えたとき、初めてフェルミオンは顔を覆って泣いた。













 
 



 


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2008/09/15