地中海・2
海に沿った道を、オリーブの木陰を選んで歩いてゆく。
「神官というのはどの辺りを目指しているのであろうか」
フェルミオンが不安そうな声で呟いた。
二人は武具を手に入れるべく、街を目指していた。
こうして歩いている間にも、もしかしたら入れ違っているかもしれない。
「おそらくこの道を行くであろう…他はすでに封鎖されているはず」
リュシアスは友を振り返った。
「それより少し休もう。そこの丘がいい」
道を外れて、小高い丘に上がる。そこからは海が良く見渡せた。
海を眺めながら、リュシアスは僅かな荷物の中から手紙を取り出した。昨日、商人が届けてくれた、妻からの手紙だった。
いつも手紙を届けてくれた商人は昨日、これを渡しながらすまなそうに、これが最後になります、と言った。
「国に帰ったら今度はもう、来ることは出来なくなります」
詳しくは、語ろうとしなかった。それでも、分かる。
リュシアスは点々と敵国の船が見える海上を眺め、苦笑した。
すでに、囲まれてしまっているのだろう。
彼らは、あとはこの国が息を引き取るのを看取れば良いだけだ。
厚い紙に書かれた手紙は、短いものだった。
妻も、もうこれが最後、と思ったのだろう。
子供たちは健やかにしているから心配は要らない、と書いて来ている。両親も元気だという。島の人たちが親切にしてくれるから、それがとても心強い、とあった。
はるかに、遠くなってしまった故郷に想いを馳せる。
リュシアスが今の妻を得たのは、十四の時だった。
戦争から三年ぶりに帰った父が、
「いずれお前のものとせよ」
そう言って示したのは、十六歳の未亡人だった。
敵国の王女で、結婚してからまだ三月もたっていないという。
彼女の父や兄弟、そして結婚したばかりの夫はすべてリュシアスの父が殺し、彼女の義母は他の将が奴隷とすべく、連れ帰った。
父のいう、いずれ、とは、リュシアスが成年と認められる歳となってから、ということだったのだろう。
そしてまた、正妻は別に他から娶らせるつもりだったのだろう。
しかし、リュシアスはこの未亡人にひどく興味をそそられた。いつまでも待ってなど、いられなかった。
老いた女になど、何の用があろう?
親しい者たちを殺した男の息子に手を取られても、彼女は取り乱した様子も見せず、逆に、優しくいたわるような眼差しでリュシアスを見つめた。
もしかしたら、そこには女に生まれたことの悲しみと、そして女によってしか血を残せないことへの誇りがあったのかもしれない。そこまでは、まだ若いリュシアスには読み取れなかった。
翌年には、子供が生まれた。
「たとえ女でも捨てるな」
生まれる前、リュシアスは妻に付き添う女にそう言った。
絶えず、戦争が起きていた年だった。いつ、自分も戦死するか分からない。兵役につくのも遠いことではないし、そうなればいつ死んでもおかしくない。
そうなった時、自分の跡を継ぐのはこれから生まれる子供だけなのだ。女子であっても、捨てることは出来なかった。
妻も、それは心得ていたのだろう。陣痛に耐えながら、力強く、そして嬉しそうに頷いた。
初めての子供は女の子だった。翌年、今度は男の子が生まれた。
そうして、四人目の子供が誕生した年に、リュシアスの国も異民族に蹂躙され、リュシアスは家族を島に逃がし、さらわれたフェルミオンの息子を探す旅に出たのだ。
「奥方からはなんと?」
横になっていたフェルミオンが、頭をもたげ、尋ねた。
「ああ…」
リュシアスは友の横に腰を下ろした。
「娘に今、刺繍を教えているそうだ。だいぶ上手になったらしい。
もうじき花嫁衣裳を作り始めると」
ふと、マントの縁を見る。
妻は、刺繍は上手だった。このマントの刺繍も、彼女の手によるものだ。
「トアスどのの帰りを待ちわびている、と」
フェルミオンは小さく笑い、再び横になった。
上の娘はじき十四になる。すでにトアスとの婚約が調っている。
「早く探し出さねば」
娘も、待ち焦がれているだろう。
こうして、両家の血は一つになる。これを、リュシアスは望んでいたのだ。
初めは、妻に対するフェルミオンの嫉妬を抑えようとしてのことだった。しかし、今は違う。
この国に来て十年。
もう、帰れるとは思っていない。この地で、自分たちは果てるだろう。
それでも、二人の血は子供たちに受け継がれてゆく。
フェルミオンに語りかけようとして、やめた。
オリーブの木陰でマントに包まり、心地良さそうに眠っている。
その横に身体を横たえる。
二人の上を行き過ぎる涼しい風が、初めての逢瀬を思い起こさせる。
リュシアスはマントの縁に鼻を埋め、笑みを洩らした。
初めて彼に会ったのは、いつだったろうか。
奴隷に付き添われて学校に行く途中、いつもこちらを見つめる視線があることに気がついた。それがフェルミオンであると知った時には、誇らしく、嬉しかった。
彼の名を知らぬ者は、あの頃、少なかっただろう。
戦争で足を痛める前、競技会ではいくつもの栄冠を受けていたのだ。国中の、娘を持つ親たちの注目の的であり、また、少年たちの憧れだった。
いつもの付き添いの奴隷がちょいと目を離した隙にリュシアスはフェルミオンと密かに落ち合い、二人で涼しい川の畔で時を過ごしたものだった。
初めて彼から与えられたものは、苦痛以外のなにものでもなかった。それを、必死で堪えたのは、ただ、意気地なしと思われたくない一心だった。
自分が他の青年たちから想われていたことは知っている。
それだけに、譲れなかった。
このようなことで挫けてしまっては自分は後々まで笑いものとなるだろう。フェルミオンからも軽蔑されるだろう。
だから、ひたすらに耐えた。
そうすることにより、自分はフェルミオンに対しても優位に立てる。彼は、想っていた少年に逃げられるという恥を晒さずにすむのだから。
いつからだろう、彼から与えられるものが喜びに変わり、そしてやがて立場が逆転していったのは。
おそらく、リュシアスが妻を得た頃だったろう。
そうして、その頃になってようやく、付き添いの奴隷が目を離したのは父の言い付けによるものだった、と知ったのだ。
父もこの青年を気に入っており、同時にリュシアスが多くの青年たちの目を引いていることを奴隷たちの報告によって知り、息子を自分の気に入る青年の手に渡すこととしたのだ。
やがて、田舎の領地にある館で過ごすことになったリュシアスの元に足の療養のためフェルミオンがやってきた。
そこで過ごした日々は、地中海を照らす太陽にも似ていた。
小鳥のさえずりと、穏やかな日差しの中、音曲を習い、古典を学び、詩を読む。ある時は馬を走らせ、槍投げに興じる。
様々な事柄について二人は語り合い、そして、夜は激しい情熱の時を過ごした。
リュシアスにとっては忘れがたい日々。
互いに妻を得た後も、こうして繋がりが絶える事がないのは、あの頃があったからだと思っている。
思い出に沈んでいたリュシアスの頬を、強い風が叩く。
ふと、目を開けて、そこに再び、幻を見い出した。
幻の中の少年たちは、今は武具をつけていない。それでも、その身につけているものが奇妙であることは変わらない。
―――― なぜ、このような幻が。
リュシアスは髪が風に散るにまかせ、考えていた。
彼らは、年の頃はどれほどであろうか。
頬も口元も瑞々しく、その目は幼くさえある。
まだ十を少し回った頃かもしれない。
―――― そのように幼い者たちが何故。
どこか、異国の情景だろうか。
それにしても、こんなにも幼い者たちが戦わねばならない世界とは、どのようなところであろうか。
やがて、幻は揺れて消えた。
リュシアスはゆったりとマントを引き、フェルミオンの肩に頬を押し付けた。
久しぶりの街は賑わっていた。
とても戦時下にあるとは思えないほどの活気だった。
あと、それほどの猶予があるのだろう。
この国の人々の、生死をかけた戦いを前にした、いわば最後の生気が街中に満ち、ほとばしっている。
二人は一軒の家を訪ねた。
この国に来てから何度となく訪ねたことのある、槍の作り手の老人が住む家だった。
家の中は、さすがに当時の面影はない。しかし、丸腰にされた今の街から、よくこれだけ集めたと瞠目するほどに豊富な武器が揃っていた。
使える物はスプーンの一本までが武器に変わっていた。
女たちの髪も、祭りのための晴れ着も。
「爺」
リュシアスは家の奥に蹲るようにして槍の絵を研いている老人に声をかけた。
彼はリュシアスを覚えていたらしく、皺だらけのその顔をさらに皺くちゃにして笑った。目までが、その皺の中に埋まった。
「リュシアス殿、まだここにおられたか」
嬉しそうに近づいてくる。薄くなった白い髪の間から、日焼けした頭がてらてらと光っていた。
「もう異国の人は皆、国に帰られたと聞かされてな、見捨てられたかと思うておった…」
「何を。まだ皆、残っている。マルティスもじきにここを訪れるであろうよ」
「おお、あの勇敢な…」
「そうだ、彼もまだ残っている。爺は神殿には行かれぬのか?
皆、神殿で剣など作っている」
「なんの」
老人は両手を広げて見せた。
「この通り、老いているわしじゃ、若い者の間で何の役に立てようか。みな、忙しく働いていおるに。邪魔なだけじゃ」
おどけたようなその口ぶりが、今はどこかわびしく、悲しい。
「何を申される、爺。爺の作った槍が一番だというに。
今も槍を見せてもらいに来たのだ。
良いものを見せて欲しい、うんと丈夫なのを」
老人は、それなら、と大きく頷き、奥へ二人を招いた。
「これだが」
壁に立てかけられた長い槍を指した。
「わしが作った最後の槍じゃ…。昨日から何人もきてこれを手にしておるが一人としてまともに扱えるものはおらぬ。
そなたなら大丈夫であろう…。ちょいと使うてみなされ。
わしにはもう、これ以上のものは作れはせぬ……」
リュシアスはそっと手を触れてみた。
なるほど、立派な作りだった。
槍の柄は良く研きぬかれ、黒々と鈍い光を放っている。
先端を覆う鹿皮の袋を除けると、そこには太く、長い矢尻がリュシアスを待っていたかのように銀に輝いた。
「ほう」
リュシアスは感嘆の声を上げ、槍を手に軽く振ってみた。
それはまるで彼のためにあつらえた物のようにしっとりと手に馴染んでくる。
「これならちょうどいい」
それから、ふと気付いて、尋ねた。
「爺。嫁御前と娘御はいかがなされておる。お女中たちは」
家の奥には女たちの居室があるはずで、いつもならそこから賑やかな声が響いてきたのに、今日は静まり返っている。
老人は矢を並べていた手を止め、落ち窪んだ目を伏せた。
口元が、引き攣って震えた。
「……逃がしたんじゃ……」
リュシアスは息を呑んだ。逃がすといっても、ほとんど包囲されてしまっているのに。
「御老人…大丈夫なのですか?」
フェルミオンの気遣わしげな声に老人はため息をついた。
「なに、捕まったら迷わず従え、と強く言い聞かせてある…。
けして抗うでない、となあ。女なら捕まっても殺されんじゃろう…。わしは言ったんじゃ。奴隷でよい、とな。
奴らの女になって子を生め、となあ」
そうして老人は掠れた声で笑った。
「生まれた子には間違いなくわしらの血が流れておる。
そしてその子がまた子を生み……わしらはこの国とともに消えるとしても、血は残る……。
なあ、異国の人よ。そうしてみると強いのは女かもしれん。たとえ奴隷に落とされようともあれらは血を残してゆく」
だから、と、老人は語気を強めた。
「ここで死なせるより、捕まっても構わん、逃がすことにしたんじゃ」
女は、確かに強いのかも知れなかった。
リュシアスは残してきた妻を想った。
まだ正式な儀式はなされていない。
しかし、両親も含め、誰もが彼女を正式なリュシアスの妻として認め、子供共々大切にされている。
夫の仇の息子の許へ妻として入らなければならなかった彼女の心を、思いやったことは、ない。
その胸の内は、いかばかりであったろうか。
それでも、彼女は恨みを口にすることもなく、女としての分をわきまえ、その役目に忠実で従順な女だった。
リュシアスの両親に良く仕え、控えめで、フェルミオンに対し、悋気を起こすこともなかった。
リュシアスもまた、それらに対し、誠実さを以て応えたつもりでいる。
国を出る前、子供たちを心配する妻のために家族を小さな島に匿うことにした。
十四になる長女はともかく、息子たちは殺されるだろう。
勇名を馳せた男の子供として。そして、妻は子供たちを救うすべを持たないだろう。
地中海全体が混乱に陥っているこの時、小さな国はいつ他国に襲われるか分からない。
だから、逃がすことにした。
そして、ただ、それだけのことしか、成し得なかったのだ。
妻の、殺された夫がどのような人物だったのか、リュシアスは知らない。
勇敢な戦士だった、と、後日、他の将から聞いた。
その男は、しかし、血は断たれた。
妻の父は、クレタ王家の血を引くという。と、すればリュシアスの子供たちにはクレタ王家の血が流れていることになる。
彼女は、娘にも言って聞かせているかもしれない。
従順であれ、と。
戦争が続く今の世、いつ、娘もその母のようになるかもしれない。
それでも。
リュシアスは手にした槍を、とん、と持ち替えてみた。
右手から左手へと、ずしりと重さが移る。
思わず、微笑む。
リュシアスの娘も、生きてある限り、このように重さを失うことはないのだろう。
いつの日にか、自分のはるかな先の子供たちが、こうして今の自分のように空を眺める日が来るのかもしれない。
その空に、幻が映る。
「フェルミオン」
馬を並べる友に呼びかける。
「どうした」
「お前には…見えぬか? あの不思議な子供たちが」
フェルミオンは訝しげにリュシアスを見、その視線を追った。
「また見えるのか?」
「……ああ…まだ小さな子供だ。戦っているらしい…しかしその相手が分からぬ…目に見えぬ」
色鮮やかな甲冑に身を包んだ少年が、長い刀を振り上げる。その雄叫びさえ、聞こえそうな気がする。
しかし、その刀の先には、何も見えない。
何者かがいるらしいことは、他の少年たちもその辺りを狙っていることから想像はつくのだが、それが、何故、自分には見えないのだろう。
ふと、その少年が見覚えのある誰かに似ている気がしてリュシアスは考え込んだ。
そして、これから探し出そうとしているフェルミオンの大切な一人子に似ていることに思い至った。
あの少年は、フェルミオンに残された、たった一つの宝である男の子は、今はどれほどに成長したろうか。
フェルミオンの妻は子を生んだのち、すぐにはかなくなった。子供は、その母親に似た、澄んだ、黒い瞳をしていた。
今、空に映る幻の少年も、美しい瞳をしている。
そして、考える。
彼らが戦っている相手とは、どのような人物なのだろう。
少年たちはおそらく悪と戦っているのだろう。
そう、思おうとして、ふと胸にわいた疑問に思わず馬の足を止めた。
「リュシアス?」
フェルミオンが怪訝そうに振り返る。
「いや、なんでもない」
再び、馬を歩かせ、空を見上げる。
子供たちの真っ直ぐな瞳は、確かに信ずるもののために生きる輝きに満ちている。しかし――――
一人の少年が一度崩れた体勢を立て直し、剣を振り上げ、向ってゆく。
声は聞こえないが、おそらくは雄叫びを上げているであろう。
その少年を助けようとするかのように今一人、やはり剣を振りたてて走り、そしてリュシアスには見えない何者かに向ってそれを振り下ろした。
その目に見えないものが、どのような風体のものであるか、リュシアスの目には見えない。
あるいは、その少年たちと同じ、澄んだ瞳の持ち主かも、知れなかった。
John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/
2008/09/04