地中海・1
どんよりと重い雲が西へと動いている。
まだ朝だというのに、辺りは夕闇を思わせる暗さだった。
「夕立の時みたいだね」
伸が小さく呟く。
「何だっていいや。早くここから抜けたいぜ、畜生」
秀はやけになって返し、額の汗を拭った。
先刻から同じ所をぐるぐると回っているような気がする。
目の前にそびえる、半分崩れて鉄骨を剥き出しにしているビル、これはつい一時間ほど前に通った、あのデパートではないだろうか。
「僕もそんな気がする……でもさあ、看板があったろう?
なんてデパートだった?」
二人は顔を見合わせた。
確かにこのビルにも屋上に大きな看板がある。
新宿の、知らぬ人もない有名なデパート。
ところが、二人ともついさっき通ったデパートの名前が思い出せないでいる。
「急ごうよ」
伸は気味悪そうに瓦礫の山を見渡しながら口早に言った。
「やっぱり何か変だよ、ここ。みんなと合流しなくちゃ」
「変ってばよ、誰かに見られてるような気、しねぇか?」
「…え…」
振り返りざま、伸は鉄骨に足をとられ転びそうになって慌てて秀の腕を掴んだ。
「気ィつけろ、どこどうなってんのか分かんねぞ。
地下鉄のトンネルにでも落ちたらヤバイぜ」
伸は大きくため息をついて頷いた。
新宿の街は、今は見る影もなく荒らされている。
戦時中もここまではひどくなかったろうと思うほどだ。
もっとも、伸も秀も第二次世界大戦を知らなかったけれど。
ともあれ、自分たちが今、どこを歩いているのかさえ分からない、この状態から少しでも早く抜け出したかった。
風がさっきより少し強くなった、そんな気がして二人が顔を上げた、その時。
「伸っ!」
秀の叫びと地鳴りがほとんど同時だった。
突然に視界が暗くなり、ビルの壁が二人に覆い被さるように崩れてきた。土埃が舞い上がり、コンクリートの塊が後から後から降って来る。
大きな塊がいくつか、鉄骨で繋がれたまま落ちてきて、それがそのまま伸の足を押し潰した。
「大丈夫か?」
遼の不安そうな呟きに伸は軽く頷いて見せた。
「骨は折れてないと思うから。平気だよ」
「けどしばらくは動けねえよ、俺も」
伸も秀も、今は武装を解いていた。
瓦礫の下敷きになった伸を救い出そうとした秀もまた、傷だらけだった。
当麻と遼が駆け付けなかったら二人とも、すぐその後に再び崩れてきたビルの壁に押し潰されていたに違いなかった。
「だけどさ、僕の悲鳴が聞こえたってことは音は充分に届くんじゃない。あちこち探し回って損した」
伸がくすくす笑いながら言う。当麻は苦笑した。
「案外と簡単なことに気付かないもんさ。俺だってびっくりした」
「もっと早く呼んでみるんだったな、伸。そうすりゃ怪我せずにすんだのに」
この不気味な雰囲気に、声に出して互いを呼んでみるという、ごく簡単なことに誰も気付かずにいたらしい。
「征士は?」
ここにはいない、もうひとりの友人については遼は肩をすくめてみせた。
「何か妙だって言ってすっ飛んでった。それっきり」
「どっちに飛んでいったんだ。いいのかよ、ほっといて」
「お前じゃあるまいし、無茶はしないよ」
一瞬気色ばんだ秀に、当麻がのんびりと返事をよこした。
今はとにかく二人が負傷している。しばらくはこうして石の間に座っている他はない。四人はしばし、無言で辺りを見回していた。
しかし、誰も先ほど崩れたビルの方は見ようとしない。
誰も、口には出さなかったが恐かったのだ。
もしかしたらそのビルが崩れる前の形でそこにあるかもしれない、そんな気がして。
この妙な感覚はだいぶ前から誰もが感じていたものだった。
どこからか見られているような、または語りかけられるような、妖邪の持つ邪悪なものとはまったく別個のもの。
石の転がる音が続き、やがて征士が姿を現した。
走り続けていたのだろう、喘ぎ、肩で息をしている。
手にした刀で遠くを指した。
「あっちに」
緊迫した声だ。彼がこんな声を出すことなど、そうあることではない。
「妙なものが見える……蜃気楼のような」
「蜃気楼?」
当麻が訝しげに繰り返した。
「いいから来てくれ」
「嫌だ、俺、行きたくない」
遼が、即座に答えた。
「冗談じゃねえ、さっきからおかしなことばかり起こってるのに。
この上蜃気楼なんか見たくない」
ラジュラの仕業とは、言わなかった。
見なくとも分かる。
先程から妖邪の気配は露ほどにも感じない。
明らかに、別の何か、だ。
他の、得体の知れないものの気配は、感じる。邪悪なものとは思えないが、何だか分からないだけに薄気味悪かった。
征士は刀で空を切り、脅しつけるように、来るんだ、と叫んだ。
「単なる蜃気楼とは思えないから見てみろ、と言っているのだ、私は。もしかしたら私たちは新宿ではない、別の空間に迷いこんでいるのかもしれん」
「お前の発言とは思えんな」
当麻が茶化すように言った。
「お前がそこまで言うからには何か根拠があるんだろ。
俺、行くよ」
「その必要もないみたいだ」
伸の、押し殺した声に、皆、彼の視線を追った。
遠くから、何かが迫ってきている。
宙に、半円を描くように浮かんだそれは、少しずつ迫ってくる。
石で作られた柱が、次々に崩れてゆく。
茶色の土埃が舞い、丘を、石が転がり落ちる。
その丘の向こうには白い、箱のようなものがたくさん見える。
それは、家のようだった。小さく切られた窓がいくつも見える。
そして、路上を埋め尽くすほどの死体の山。
秀は強く腕を引かれて我に返った。
おそらく、伸だろう。それが分かっていても、振り返るのが恐ろしかった。
恐怖に髪は逆立ち、全身が粟立っている。
「……なんだ、これは」
掠れた、引き攣った声は遼のものだった。
「…違う」
今度は、征士だった。眼を見開き、唇は戦慄いている。
「……私が見た時とは違っている……」
皆、呆然と立ち尽くしていた。
目を閉じても消えない、紅い幻影、逃げ惑う子供たち。
―――― 見たこともない鎧を纏った ――― 崩れ落ちる瓦礫の下、掠れた悲鳴が上がる。
自分もまた、叫びそうになって、首筋に強く押し当てられる唇の感触に男は我に返った。
目の前に金茶に光る髪が広がっている。
薔薇色の空の下、幕を張っただけの簡素な寝所で、二人はマントに包まり、しばし動けずにいた。
あれはいつ、どこで見た光景だろう?
リュシアスは冷たい髪を心地良く感じながら虚空を見つめて考えていた。
今まで旅してきた、どこの街や国でもあのような不思議な建物は見たことがない。
それは子供たちが身に着けていた武具についても同じだ。
あのように奇妙なものは見た事がない。
水を浴びるため、リュシアスは幕を上げ、外に出た。
夜が明け始め、紫色に沈んでいた山々は少しずつ、色を表してくる。
その中に、風景にそぐわぬ、輝くものを見つけてリュシアスは身体をマントで覆った。
「これはまた。思わぬところでお目にかかる」
その声に、横にいたフェルミオンも首を巡らせた。
供を一人だけ連れた男がこちらに向ってくる。輝いていると映ったのは、彼のマントを留めている黄金の肩飾りだった。
「ここいらをひと回りしたらまた来るとしよう。話があるのだ」
言い捨てるとくるりと背を向け、オリーブの林に消えた。
その間に身支度を整えておけ、ということか。
リュシアスは苦笑してマントをとり、傍らの小川に足を浸した。
「まだ夜も明け切らぬというに」
「今のはどなたか。会った事があるような気もするが」
親しい友のフェルミオンがぼんやりと男が消えていった林の方を見ている。
「先の戦いの時、我らの部隊の隊長だった人だ。あなたも二度ほど会っている」
「ああ」
フェルミオンは頷き、リュシアスを振り返った。
「あのガリア人の」
片足の不自由なフェルミオンは先の大きな戦いに参加していない。
リュシアスがわざと小さな島に置き去りにしたのだ。
友人のためを想っての事だったが、この友はひどく傷つき、泣いて怒ったものだ。
夜を過ごした丘からはるか遠くに、ぼんやりと海が見える。
ふるさとはその海の向こう、アカイアと呼ばれる地にあった。
かつては富み栄えた、美しい土地だった。
今は長い戦争と略奪にくたびれ果て、見る影もない。
子供たちの多くは奴隷に取られ、異民族のもとに売られていった。
その中に、フェルミオンの息子もいるはずだった。
二人はまだ戦争の続く中を探し回り、何とかこの土地
――― 黒い大陸にいることを突き止めたものの、この広い大陸のどこにいるのかはさっぱり分からない。
ここへ渡る途中、立ち寄った島にフェルミオンを置いてリュシアスはこの大陸側の傭兵となり、戦争に加わった。
他にこちら側に渡る手立てがなかったのだ。
フェルミオンには傷を負うことなく、国に戻って欲しかった。
それだけに、戦争が終り、一年も過ぎた頃、杖をついて、擦り切れた服で市場を彷徨うその姿を見つけた時には動転したものだ。
敵国との講和条約をめぐって、国内はひどく混乱していた。
友の存在を忘れたことはなかったが、様子を見に行きたくとも船も出すことは出来ない状態だったのだ。
一体どのようにして渡ってきたのか。長い年月を、どのように過ごしていたのか。
今でもそれを思うと胸が痛む。
もう二度と、あのようなことはすまい、と、固く誓った。
思えば国を発つ時にも誓ったのだ、死ぬ時は二人、同じ地で同じ時に、と。
「どうした?」
こちらの胸中にあるものを見透かしているかのように口元に皮肉な笑みを浮かべ、青い目を細めている。
フェルミオンは長い衣の端を掴み、ゆったりと肩にかけると襞を整えた。
青く染められた麻の布は流れるように彼の足を隠してゆく。
傭兵隊長が姿を現したことの意味は、大体見当がつく。
交渉は、まとまらないのだろう。
リュシアスは丁寧に襞を折り込むフェルミオンの長い指を見つめていた。
再び戦争となった時、彼はもう離れようとしないだろう。
「私を置いていく算段なら許さぬぞ、今度は」
ぎくり、としてリュシアスは友の顔を見つめた。
「一度は許しもしようが…二度目はない」
きっぱりと、そして寂しそうに、
「私を邪魔者扱いしてくれるな。足は悪くとも槍投げならば誰にも引けは取らぬ」
肩口をピンで留めながらさりげなく言うその口元は、しかし、辛苦に歪んでいた。
「もうあのような想いはさせてくれるな」
「安心しろ」
リュシアスは狼狽しながらも努めて明るく答えた。
「嫌だと言っても今度は冥途まで一緒だ、フェルミオン。
……まあトアスを探し出すまで死ぬわけにもゆかぬが」
フェルミオンは豆のスープを温めながら小さく頷いた。
あれから何年たったろう。
フェルミオンの息子 ――― 名を、トアスといった ――― も今は大きく成長しているだろう。もう立派な青年になっているに違いなかった。
彼には小さいながら肥沃な土地に恵まれた国とそこに暮らす、多くの民がいる。
今はフェルミオンの兄が治めているが、子もなく、凡庸な兄は異民族の統治下に置かれるままに任せていた。
老いた父にも、大人しいだけの兄にも、異民族からの圧力を跳ね返す力はなかった。
民は若く、活力に溢れた、立派な僭主の出現を待ち望んでいる。
トアスが治め、父のフェルミオンが補佐する、それこそがフェルミオンの父の、ただ一つの夢だった。
――― そして、領民たちの。
傭兵隊長はまだ若かった。何故か他のガリア人のように髭を蓄えておらず、そのせいか、実際の年齢よりもずっと若く見える。輝くような金色の豊かな髪と、澄んだ青い瞳を持つ端正な顔立ちからは戦場での猛々しさは想像できなかった。
名を、マルティスという。
本当の名はもっと長いというが、皆がうまく発音できないため、この名で通している。
「それで話というのは」
リュシアスは切り出した。
「また近く戦争が始まるのか?」
「それもある」
リュシアスは腕を組んだ。
戦うといっても、この国にはもう何もないはずだった。
武器はもちろんのこと、船も軍資金も。先の戦いに敗れてのち、すべて差し出したと聞いている。
「女子供まで駆り出すつもりだろうか…」
むっつりと呟いたリュシアスに、隊長は頷いて見せた。
「すでにそうなりつつある……もう武具の製造なら始まっている。
…このような奥地にいては気付かぬのも無理はないが」
それから急に、この辺りを神官が通らなかったか、と尋ねた。
「目の見えない、まだ若い男だ。おそらくはそなたたちの同胞であろう」
リュシアスはフェルミオンを見、フェルミオンは首を傾げた。
ここは街から随分離れている。神官が、このようなところを、そもそも何の目的があって通るのだろう。
「して、その男が何か?」
フェルミオンが控えめに尋ねた。
マルティスは頷いてフェルミオンを振り返った。
「そなたらはご子息を探しているとか。その神官は若い奴隷を連れていたのだ。
何でもこの街で買い受けたという。――― 生まれは高貴な者らしいとその神官が言っていたのでもしや、と」
「その奴隷の名は?」
咳き込んで尋ねたフェルミオンに、隊長は申し訳なさそうに首を振ってみせた。
「後で思い出したことなので。ただ、アカイアの人であることは間違いない」
そしてリュシアスに向き直った。
「良い話であろう? …もう一つ話があるのだが」
リュシアスは手を上げて制した。彼が何を言いたいのか、もう分かっている。
「よい。戦いのことであろう? どのみち加わらねばなるまい」
マルティスの青い瞳がきらり、と輝いた。
こうなることは分かっていたのだ。先の戦いでの自分の働きは高く買われていた。
それに、この国に身を置いてすでに十年になる。
この、豊かな美しい国が手もなく抹殺されるのを黙って見ているには、十年は長すぎた。
「あなたは」
マルティスはフェルミオンに向い、慎重に口を開いた。
「いや、気を悪くされないで頂きたい――― 足がお悪い様子、戦争になったらどうされるのか、それを伺いたいだけなのだ」
「安心なされよ」
フェルミオンは不適な笑みを見せた。
「槍投げなら負けはせぬ。馬さえあればリュシアスと同じか、それ以上の働きはしてみせよう」
「なれば」
マルティスは微笑み、頷いた。
「足の速い馬を用意しておこう。…いずれ近いうちにまた会おう」
若い傭兵隊長は手を上げ、林に待たせていた従者を呼ぶと立ち去っていった。
John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/
2008/09/03