on 2004/12/27 16:31:54 JST
改めて、怖い作品だな、とも(笑)
最後まで、本当に容赦なかったですね…作品としては、やはりその方がいい。

甲洋には、ぜひ、出て欲しかった。
彼が一騎の手を引いたシーン。
翔子の死をきっかけに確執が生じてしまった一騎と総士を、彼が引き上げる、
それがもう、感動だった。泣きました。
(あそこではミョルニアさんが出てきたらダメでしょう…)

剣司の絶叫。この時の彼は最高にカッコよかったと思う。
泣いてましたけど(だからいいんですが。彼らしくて)
代わりのような形で取り込まれてしまった母親の事、
咲良のこと、衛のこと…そして、何よりも生きて島に帰る、という約束。

それぞれにスポットが当って、それでいて、本質は押さえてあった気がしますよ?

総士と真矢。
これはなんとなーく思ってたことですが、
男にとって男同士の友情、絆、というのは時には恋人よりも大事ではないでしょうか…
生かされなかったか、というと、これまでの物語の中で、それがなければ生きてこなかった場面は
たくさんありましたし。

所々、作画の乱れとかありましたし、確かに消化しきれてなかったところもあるでしょうけど、
全体的に見たらとても良かった。
何よりも、視聴者に変に迎合しなかった、という意味で。

なんというか、目の前に叩きつけられた、という気がする。
「お楽しみ」として提供されたんじゃなくて。

また見ます。最終回まで見て、そこからまた一話に戻ったら
違って見えると思うから。



on 2004/12/27 20:17:58 JST 元記事
>@総士は何故ファフナーに乗れなかったのかまた、何故乗らなかったのか。

恐らくは目のせいか、ジークフリードシステムの方に行かねばならなかったからでは?
1話で「僕がファフナーで出ます」と言った時、父親に、「お前にしかできない事があるだろう」と止められてますし。

>B真矢の身体的ハンデ。(同化しやすいってやつ?)

これは結局弓子が改竄した結果でしょう。

>CEDは嘘かよ。

ただのイラストだと。

>E二人がたどり着いたとされる『絶対的な肯定』とは?

受け入れる事、と私は解釈しました。
総士が最後に語ってますが、「どれほどに苦しいものであっても存在を選ぶ」
これは、かつてニーチェが語った、「同じ瞬間が繰り返されるものであっても
その生を受け入れるか」(うろ覚えですが)

「その運命を愛せよ」
「どれほどに苦痛で悲しいものであっても”是”と!」

こういうことでは?



on 2004/12/29 03:02:21 JST
さくらについてとか、いろいろと言われているようですが。

これはあくまでも私見ですが、例えばさくらに関してはもう解決済みかと。
ミョルニアのおかげで短期間で効果が出た、という台詞で、剣司が涙する。
それで、彼はこれより以上に強くなれる。
それまではおそらく絶望の淵にいたであろう彼が、「生きて帰らねばならない理由」を
そこに見出せればそれで良かったのではないでしょうか。

道生と弓子の子供についても、それは「生命が誕生する」と言うことを語るための
重要なエピソードで、それ以上のこと、例えばどのような子供が生まれるのか、
一騎たちとは違っているのか同じなのか云々を語ることは、興味深いことではあっても
物語の本質から完全に外れてしまうと思います。

1話からずっと何度も見返してみると、確かに取残した部分はあるかもしれない、
でも、おそらくは一番伝えたかったであろうことはこちらには充分伝わっただろう、と
思います。

真矢と一騎の関係、総士と真矢の事についても、それは物語をより身近にするための
味付けだったろう、と思えます。

何度も繰り返される「存在と無」「生と死」、現在ここに存在し続ける喜び同時に苦しみ。
人は生まれると同時にあらゆる苦しみにさらされながら、いずれは死んでいくわけですが、
それを分かっていて、なお、そこに在りたいと願うか、あるいは、消えていく方を望むのか。

そうした、人類がこの宇宙に誕生してから今まで、たえず繰り返されてきた問いを、
改めて突きつけられた気がします。