子供の時間・2






  不覚だった……何というもったいないことを。

静まり返った休憩室で一人、ジュースの缶を手に、一騎は胸の内で独りごちた。

缶はすでに空になっている。その空になった缶を手の平で転がし、押しつぶしたり、を繰り返しながら元旦のことを思い出していた。

寝てしまったのは仕方ないともいえる。
あの前の日から寝ていなかったのだから。

 せめて仮眠取ってから行くべきだったよなあ……。

何度目かのため息をつき、空になった缶の中を覗きこむ。

正月で人の少ないアルヴィス、その中の総士の部屋。
二人きりになりながら、そして総士が自分の作った料理を食べてくれたというのに自分はそれを見ることもなく、だらしなく寝こけていたのだ。
目が覚めたときは昼を回っていて、持って行ったタッパーは綺麗に洗ってあった。

「昼もこれで済ませたよ。ありがとう」
そう言って笑ってくれた。
さらに、
「お前も食べずに寝てたんだから腹が減っただろう」
と、食堂に連れて行ってくれた。

 総士に食事持っていって、部屋で寝こけたあげく、昼飯までご馳走になって。

 一生の不覚だ、ああもう。

缶を口に当てて最後の一滴が口に落ちるのを待つ。

 二人きりで話したいことはいっぱいあったのに。

何を、という具体的なことは聞かれても答えられないだろう。
それでも、食事をしている総士を見ていれば、例えば彼の好みの料理についてとか、味についてなど、話せたように思う。

残念ながら自分に思いつくのはそのくらいだった。
話術の上手な人ならそこからさらに話を広げたりも出来るのだろう。
一騎にとってはそれは想像も及ばない。

でも、その場になったら何か思いついたかも。

そう思うと悔しくなってくる。
「ああ、もう悔しい」
つい、声に出していた。
「何が悔しい」
思いがけない返事に飛び上がるほど驚いて振り返る。
総士が立っていた。
「どうしたんだ、一騎。何かあったのか?」
「あ……いや、なんでもないんだ」
慌てて立ち上がろうとして躓いた。
転びそうになるのを、隣の椅子に掴まって体を支える。
「大丈夫か? 本当に何か?」
「いやいや。ほんと、だいじょぶ」

 こんなところで足を引っ掛けるなんて自分らしくもない。

いきなりの総士の出現に慌てたらしい。

その総士は訝しげにしばし一騎を見ていたが、やがて自動販売機の前に立った。
「一騎。それはもう空なんだろう? まだ何か飲むか?」
「あ……ありがと。えと……じゃあ、ジンジャーエール」
「ああ、わかった」
後ろ向きでその表情はわからないけれど、何となく総士は笑っているのではないか、そんな気がした。


「あの、総士」
後ろ姿におずおずと声をかける。
「うん?」
缶を手に振り返る。
「えと。あの、今日は鏡開きだから……で、お前を誘おうかな、とか」

実は今の今まで忘れてしまっていた。
総士を誘うつもりでここに来たのに、待っている間に先日の醜態のことが思い出されて悶々としていたために忘れていた。

「鏡開き」
総士は缶を投げ、呟いた。
「あれか、お前が寝言で言ってたな」
「……寝言?」
頷いた総士の顔を見る。冗談で言っているのではないらしい。
「お前が僕の部屋で寝てた時だ。鏡開きとはなんだ、と聞いたら半分寝てた、と思うんだが…お汁粉ときな粉がどうとか」
「……きな粉?」
一騎は思い切り首を傾げた。
「ああ、確かにそう言ったぞ。鏡開きの時に何かきな粉を使うんだろうな、と想像してたんだが……違うのか?」
「……?」
しばし考える。
「もしかして安倍川のことかな…」
「アベカワ?」
「うん、安倍川餅。俺、好きなんだけど、父さんが余り好きじゃなくって。だから作らないんだけど。
総士は? 食べたこと、ある?」
「いや……第一、初めて聞いた」
「じゃあ…仕事終わったらうち、来いよ」
「あ…ああ」



 きな粉、か……。

家路を辿りながらぽりぽりと頭をかく。
何故またきな粉のことなど言ったのだろう。

 ていうか総士の前で寝言……。

本当に今回の自分は自分で殴りつけたいくらいに間抜けだ。
鏡開きくらいはまともにやりたい。

まともと言ったところで普通に鏡餅を割るだけのことでしかないけれど、総士と過ごせるだけで嬉しかった。



 小豆を煮て、さらにきな粉も用意する。
予定にはなかったが、あのようないきさつがあったからには一応、作ろうと思っていた。
それにしても寝言でいうとは。

 そんなに俺、安倍川食いたかったんかな。

自分でおかしくて、くす、と笑う。

「なんだ、何を笑ってる」
後ろからの父の声に飛び上がった。
「なんでもないよ、思い出し笑い。父さん、いい加減に切り上げて。そろそろ総士も来るから」
「…あ? ああ。わかった」
父が作業場に戻り、後片付けを始めたころ、外から総士の声がした。

「いらっしゃい、入って」
入り口で緊張した面持ちで立っている総士を中に招き入れる。
「お邪魔します……」
父の方に軽く一礼をして、そろそろと入ってくる。


「で、あの一騎」
土間に立ったまま、総士が半ば困惑した表情で切り出してきた。
「うん? なに」
「……鏡開きとは……どうするんだ?」
「え。どうする、って。別に……鏡餅、割るだけ…」
改めて聞かれて戸惑った。
「割るというのはお前が寝言で言ってたが……本当に割るのか? あれは寝言だったし……」
訝しげなその顔に一騎は笑って頷いた。
「寝言だから冗談だと思った? 本当に割るだけだってば」
「……」
どうも、その様子からするに、総士は何か儀式めいたものを想像していたのではないか、そんな気がした。

「君の家ではやらなかったかな」
父が笑いかける。父も、皆城家のそういった日常までは知らなかったのだろう。
総士は首を振った。
「もしかしたら小さい頃には何か……やったのかもしれませんが……記憶にはないです……」
「そうか。一騎は大好きだがな」
「いや、好きっていうか……」
年中行事だし、と口の中で呟きながら笑っている父の横顔を見る。

胸の奥で、何かが動いた。
なんだろう?


 正月の間飾られていた鏡餅は、全体にひびが走っている。
一騎はそのうち、大きい方を持ってきた。そのほうが割りやすい気がした。

木槌を総士に渡す。
「ほら、これで叩くんだ」
「え? え?」
戸惑ったように木槌を見、餅を見る。
「いや……しかしいいのか? 叩いたら割れてしまう……」
「うん、だからそのための鏡開きだから」
「え…っ…」
その時の総士は今まで見たことがないような戸惑ったような表情を浮かべていた。

史彦のほうを見る。
史彦が頷くのを見てもまだ決心がつかないように木槌をもって餅の周りを回っている。

「総士、叩いていいんだってば」
「こ……こうか?」
すこん、と当たったそれはとても餅にダメージを与えるようなものではなかった。
一騎は噴出していた。
「違う、もっと力いっぱい」
「……」
ごく、とつばを飲み、目を見開き、再び木槌を振り下ろす。
遠慮がちに下ろされたそれは、鏡餅の端をかすっただけだった。

「おい、それじゃあ、割れなくなっちゃう」
一騎はついに総士から木槌を取り上げ、小さい方の餅を持ってきた。

「俺がやって見せるから。総士もあとでやってみて」
本当なら大きいほうも割りたいのだが、まあ、そこは我慢するとして。
一騎は思い切り木槌で小さい餅を砕いた。
力任せでなく、破片が飛び散らないようにぎりぎりで力を抜く。
この加減は総士には出来ないかもしれない。

丸い餅は五つほどの欠片になって転がり、さらに細かい餅が散った。
「このちっちゃいのはまあ……どうにも出来ないんだけどさ。大きな欠片は焼いてお汁粉に入れるんだ。
今ので大体わかったかな」
「……」
無言で頷く。

木槌を受け取り、それでもまだ躊躇いを見せる総士に、ふと幼い頃の自分が重なった。



 もう自分でも忘れていた記憶。
母はすでにいなかった。家の中で、いつも父と二人で過ごしていた。

木槌を父に持たされ、これで餅を叩け、と言われた時の、あの戸惑いを思い出していた。




 幼い頃はよく茶碗を割ったものだった。
父にきつく叱られた記憶もない。
しかし、その残念そうな顔に、幼いながら割ってはいけない、父にこのような顔をさせてはいけない、ということを深く刻み込んでいた。

そんな父が、餅を叩け、という。
 叩いたら割れちゃう。
そう思ってなかなか割れず、どうして良いのか判らずにしまいに泣き出してしまったのだった。

 あれは、何歳だったのだろう。
今、小さく感じる木槌が、童話の中に出てくるもののように巨大に感じられたあの頃。

さっき、胸をよぎったものはその時の記憶だったものか。
おそらく、総士も当時の自分と同じなのではないか、そんな気がした。


まだ躊躇っている総士の手に、自分の手を重ねる。
「じゃ、俺も一緒にやるよ。
だったらいいだろ?」
「あ……ああ…」
「よし。じゃあ…せーのー!」
声をかけて振り下ろす。
大きな餅は鈍い音を立てて二つに割れた。

「わー、もっと小さくしなくちゃダメだな」
「…これも叩いていいのか? 包丁で切るのではなく?」
「うん、なんか包丁は使っちゃいけないんだって」
「そうなのか…」
そう言った総士の瞳の色が先ほどとは違っている。
「総士、やる? 今度は出来るだろう?」
「…ああ」


総士は今度は確実にその大きな欠片をさらに小さく砕くことに成功した。
一騎もまた加わる。大きな欠片はもう一つ残っている。

普段は決して出来ない、こんな、子供じみた行為。

二人ともいつしか夢中になっていた。
あれほど躊躇っていた総士が木槌を奪い取り、残りの欠片を割ろうとする。
一騎もまた、負けずに奪い返す。
二人は笑い転げ、餅が小さくなるまでそれは続いた。

――― 人が本来持っている、破壊衝動にも繋がる何か。

人を傷つけることなく、祈りに変えられる瞬間。
――― 円満であれ、と。



 小さくなりすぎてしまった餅は網で焼くことが出来ず、オーブントースターを使わねばならなかった。

やはり、子供だ。
自分たちはまだまだ子供なのだ。
餅を割るのが楽しくて、先のことまで考えていられなかった。


「やりすぎてしまったかな」
照れ笑いを浮かべる総士に、
「そんなことないよ」
と答える。
「この餅には神様が宿るんだって。細かくなって神様が増えていいんじゃないか?」
「神様を食べるというのもすごい発想だな」
「日本人ってすごいよね」
笑い合いながらお汁粉を作る。

「楽しかったか? 総士君」
居間からの声に父の方を振り返る。
めったに見ることのない、父の柔らかな笑みに、またあの幼い頃の記憶が重なる。

 木槌をもって弾けるような笑みを見せた総士。

「こんなに楽しかったのは久しぶりだよ、一騎。
どうもありがとう」
「俺も楽しかったよ」

それは心からの言葉だった。
総士の笑顔を見ることが出来て。
そして、幼い頃の少しだけ切ない記憶を思い出すことが出来て。

 今年はきっといいことがある。

お汁粉を食べる総士の横顔を見ながら一騎は小さく笑った。

















 
 



 


John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/

2009/02/10