欠けた月






 
    薄暗いアルヴィスの廊下に、自分の影だけが滑るように動いてゆく。
一騎は手の中の包みをしっかりと落さないように持って、会議室へと向っていた。


 何故、そんな気持ちになったのかも良く分からない。
ただ、西尾行美に、中秋だよ、と聞かされ、なんとなく総士と月見がしたくなった、というだけのことだった。
 ここへ来る途中、月はきれいな姿を映していたけれど、それが本物でないことくらい、今では分かっている。
一日くらい、偽装鏡面を解除してもらってもいいのではないか、そんな気がしていた。

 島の他の住民だってきっと本物の月を見たがっているだろう。

会議室の中では総士が一人、パネルに向っていた。
「総士」
総士は驚いたように振り返り、ああ、と軽く返事をしてまたパネルに向き直った。
「まだ仕事なんだ」
内心の失望を押し隠して声をかける。
総士は頷いた。
「何か用か?」
「ん、用ってほどでもないんだけど」
そっと机の隅にだんごの包みを置く。
「これ、月見だんご。今夜は月がきれいだよ」
「ああ、知ってる」
総士は軽く頷いた。特に何の感慨もなさそうだった。
「…外に出たの?」
「いや? 外に出なくても月と太陽は毎日観測してるぞ」

軽い音がして、メインモニターの横の、小さなモニターが点滅する。やがて、画面いっぱいに明るい月の映像が広がった。
「……わあ……」
思わず声を上げていた。クレーターの細かい影までがくっきりと見える。
総士はキーを叩きながら、
「月の観測も仕事の一つだからな」
といった。
「これは…本物? 偽装鏡面の外の…」
「ああ」
「…仕事で見てるんだ…」
「ああ。月の満ち欠けが人間の体長に影響を与えてるのは確かだからな。ただ、まだデータが足りない。それと太陽は黒点の観測だな、主に」
「……黒点…」
そういえば授業で習ったような記憶もある。
「太陽黒点が地球の気象に何らかの影響があると言われているが…それだけでなく、様々な現象に関連していると言われてる。
そのデータを取ってるんだ」
毎日やっていることだからだろう、総士は特に興味もなさそうに続けた。
「今まで過去二百年近くのデータはある。が、その半数以上はアテにならない。ここでやってるのも」
くい、と顎でモニターを示す。
「大して重要なデータが得られるとは思えない。でも何かが得られる可能性だってないとは言えない」
「…ふうん…」

ないとは言えない、というだけのことのために毎日データを取っているのだとしたら、確かに興味も薄れるだろう。
「むしろ月の方が重要なんだが…」
総士が言いかけた時、モニターの一部が開き、一騎は慌てて後ろに下がった。
「何か?」
総士が問いかける。
モニターの向こうには羽佐間容子の姿があった。
「今、そちらにデータ送ったわ」
総士は頷いてもう一つのモニターを見た。そちらでは青い線がだんだんと伸びているところだった。
「今、受け取ってます。確認したらまた…」
「ええ、それでね、マークジーベンだけはまだデータ送ってないの。ちょっと問題が」
「…はい、分かりました。解決しそうですか?」
画面の向こうで羽佐間容子の姿が消え、変わって小楯が現れた。
「どこか壊れてるとかそんなんじゃないから大丈夫だ。少し…そうだな、三十分くらい待ってくれるか?」
「ええ、大丈夫です」
ぷつん、と軽い音がしてモニターは消えた。

と、入れ替わりに別回線が開く。史彦の顔があった。
「総士君、間に合いそうかね?」
「はい、一部が遅れますが…他は特に。こちらで今、処理中です」
「分かった。じゃあ、十分前になったら連絡を」
「はい」

息を詰めていた一騎は、ほうっと大きく息を吐いた。
忙しそうだ。
しかも、見れば自分たちの戦闘データの解析、そして新たなデータの入力をしているらしい。いわば自分たちのために働いてくれているのだ。

「総士。甘いものは疲れた時にはいいらしいぞ。だんご食って休んでくれ」
「ああ、ありがとう」
総士はモニターから目を離すことなく、片手だけを上げて答えた。



 誰もいない廊下に、足音だけが澄んだ音を響かせる。
一騎は一人、仕方ないか、と呟いた。
その呟きさえ暗い廊下に吸い込まれていく。
それでも湧き上がってくる失望を、一騎は何とか押さえ込んだ。

 外はすっかり日が落ち、墨を流したように深く、暗い空に月がぽっかりと浮かんでいた。
まるで黒い紙に穴をあけたようにくっきりと輪郭を見せて輝く月と、その横にちらりと光る金星。

 思えばこんなにじっくりと月を見るのも初めてかも。
一騎はふと、そんなことを思った。
子供の頃も今も、月を眺めたことなど、ないような気がした。
少なくとも、愛でるという意味で眺めたことは、なかった。

 きれいだったんだな、月って。

堤防の端に腰を下ろし、月を眺める。

会議室のモニターに映っていた月もきれいだった。クレーターから走る白い線や、くっきりと映った山脈の影。
でも、それよりもこうして竜宮島の影に寄り添う月の方が美しく見えるのは何故だろう。

 総士と二人で、この月を眺めながらだんごを食べる、という願いは叶えられなかったけれど、月がこんなにも美しいものだった、と分かっただけでも今夜、ここに来た甲斐はあったと思う。


 その後、何日かは総士と会うことも出来なかった。
否、訓練で声だけは聞いていたが、顔を合わせるまでの時間は、何とはなく、気だるい。
訓練にも身が入らないのか、何度も総士に怒鳴られた。

 『一騎』
訓練も終ろう、という時、総士の姿が現れ、次いで声がコックピットに響いた。
「なんだ?」
『今夜、何か予定あるか?』
「いや?」
『じゃあ…付き合え。七時に堤防のところのベンチにいる』
「あ…うん」
返事を待たずに総士の影は消えた。


 一騎は家に飛んで帰るとシャワーを浴び、着替えて大急ぎで簡単な夕飯を作り、また家を飛び出した。

総士の方からの呼び出しだ。
期待と同時に、かすかな不安もあった。
叱責かもしれない、と思うと心は重くなる。それでも足取りは軽かった。

堤防には、すでに人影があった。それを見て一騎はダッシュした。
総士に間違いない。まだ制服姿だった。


声を上げようとして、思いとどまる。
歩を緩め、ゆっくりとその影に近づく。
夏にはまだこの時間は明るかったのに、今ではすっかり夜だった。
堤防に長く落ちた総士の影が動いた。

「今日は外は晴れてるぞ」
「…え」
何の話だろう、と思う。
総士は軽く笑った。
逆光でその表情までは分からない。

と、大きく光が動いた。
空の色が変わる。
「あ……」
動いた影を見、空を見る。
月が消え、替わって現れた空の反対側に月が顔を出す。

「……偽装鏡面…解除したの…」
「ああ」
光の方向が逆になり、今度は総士が笑ったのが分かった。
「残念ながら月は少し欠けてるが…満月に負けずにきれいだと思うぞ」
「うん」
頷いてから、はっとした。
「もしかして…こないだ、知ってた?」
「もちろん知ってたさ。知らなくてどうする」
月の観測をしているのだ、知らないはずもなかった。
「アルヴィスでの決定だからな…あの日は危険だったんだ」
「…そうなんだ…」
総士はベンチに腰を下ろし、軽く膝をさすった。
「マークジーベンの調子が良くなかった。それもあって」
そのような時に襲われたら大変だから、ということなのだろう、と一騎は想像して、それ以上はあえて聞かなかった。
おそらく、自分が想像する以上に多くの機密があるに違いない。
総士は軽くそれらを口にするようなことはない。

「今夜は…大丈夫なんだ」
「まあ…それと今夜はお前に見せたかった。本物の月が昇ることなんか滅多にないから」
「……」
「誕生日おめでとう」
「え」
思わずぽかんとして総士を見つめる。総士は噴出した。
「やっぱり忘れてたな。多分、忘れてるだろう、とみんなも言っていた。おかげで賭けにならなかった」
「なに賭けって」
総士はおかしそうにくすくす笑いながら膝に手を付いた。
「ああ…お前が誕生日を覚えてるかどうか、っていう賭け。
みんな忘れてるだろう、と言ってた。それじゃ賭けにならない」
「………だね」

自分にも皆にも呆れながら―――
総士の横顔を見つめて、一騎はなんとも言えない満足感を覚えていた。

 総士と二人で月を見るのもいい。誕生日を祝ってくれたのも嬉しい。
それよりもなによりも嬉しかったのは、ただこうして二人でいる、ということだった。それを今さら知った。

この二日ほど顔を見ることもなかった。
会いたい、と思っていた。互いが傍にいることを実感したかった。
ただ、それだけだった。
それだけのことが、こんなにも嬉しい。

少し前には互いに避けるようにしていた。その間さえ、それでも姿が見えなければ不安だった。
今は傍にいる。
すぐ手の届く場所にいる。それだけでいい。

「さあ」
総士は立ち上がり、一騎を促した。
「みんなが食堂で待ってるぞ」
「え?」
「早く行け。みんな、待ちくたびれてるだろう」
「なに…」
総士は苦笑した。
「まだ分からないのか。こんな時間にみんなが食堂に集まるなんて何があると思うんだ?」
一騎はぽかんとしていた。
「ミーティングとか?」
総士は呆れたようにくしゃくしゃと髪をかき混ぜた。
「本当にお前は……お前の誕生日パーティだ。早く行ってこい」
「え…ええ?」
そういえば去年も祝ってくれたことがあった。その前も。
しかし、一騎はそうしたことを毎年忘れていたのだった。
「お前も…?」
「ああ。あとから行く」

とん、と肩が叩かれ、ついで押される。
その感触が嬉しくて―――
一騎は笑って手を振った。















 








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2008/09/20