太陽の島 5






 
  白い波が、消波ブロックに当たって砕け、しぶきを散らす。
砕けた波の間から、長い浮きが顔を出す。
糸に、僅かな手ごたえを感じて、軽く浮きを動かしてみる。と、波の間に浮きが沈み、史彦は竿を煽った。
かかっていたのは、手の平ほどのメバルだった。
 焼き魚にちょうどいいかもしれない。

 魚をクーラーボックスに入れ、新たに餌をつけていると、後ろに人影が現れた。
「釣れますか」
「ああ、こんにちは」
向かいの家の住人で、良く、石段の掃除をしている、初老の男だった。
 ごく普通の、気のいい男だが、実は溝口の部下の一人で、文字通り、生死の境を何度もくぐってきた百戦錬磨の男だ。
彼は今、溝口との繋ぎを務める一方で、警備にも当たってくれている。

 「メバルと…ベラですな」
「ほお。晩のおかずになりますね」
「ええ、良かったらいかがです、シャコも釣れましたよ。息子はこれが苦手なんで…」
「もったいない、美味しいのに」
男は、クーラーボックスの傍にかがみこみ、中を覗いた。
そして、声を低める。
「…お子さんたちが普通なので…失望したらしいですよ」
「そうですか…」
思わず、笑みが漏れる。

 どうやら、一騎と総士の子供たちが、いくら検査をしてもまったくその両親と変わりがないことに失望したらしい。
 千鶴個人が、なのか、その背後の誰か、なのか、その辺りはまだ、はっきりしない。

「そうそう変った子供が出来るはずもない。突然変異が生まれる確率はここでマグロが釣れるよりも低いだろう。そもそも人類がここまで進化するのに何万年かかったと思ってるんだ」
初老の男は可笑しそうに笑った。
「そのうち…連絡が来るでしょう。いや、しかし元気のいいお子さんたちですな」
「うるさくて申し訳ない」
「なんの。子供はうるさくないと。お嬢ちゃんがこの前、花をくれましてね」
「ほう」
軽く竿を煽りながら、老人を振り返る。
 近隣の人にはきちんと挨拶をするよう、しつけていたが、この年寄りとも親しくなっていたのか。
けれども、思えば毎日顔を合わせる相手では、あった。
 「庭に咲いてたんでしょうか。スミレの花をね。
嬉しかったなあ」
にこにこと、皺を深め、目を細めて笑う。
その顔は、どこから見ても、穏やかで、とても軍人とは思えない。

 「坊ちゃんも何ヶ月ですかね。大きくなった」
「今…五ヶ月かな。あの子は少し、発育が遅いようで」
「なに、男の子は遅いもんですよ」
 総士が今、日光浴をさせている長男は、祐哉と名付けられた。
一騎は一週間、考え抜いた挙句に、その名前をつけた。
 「あまりかっこよくはないけどさ」
一騎は、そう言った。
「親の期待のかからない名前にしたんだ。かわいそうだから」
 その言葉に、一騎は自分の名前に、多少なりとも両親の期待を感じたものか、と思う。
そして、それが負担に思えたものか、とも。

 「先が楽しみですな。いいお子さんに恵まれて羨ましい」
男は呟き、クーラーボックスを開けて大きなシャコをつまみ出した。
「どれ、じゃ、お言葉に甘えてこのシャコ、もらっていきますかな」
「どうぞ、持っていってください」
軽く会釈をする。男は、嬉しそうに、日に焼けた顔を綻ばせ、シャコの入った袋を持って立ち去った。
 
 子供たちに変化はなくとも、確実に、島には変化がある。
剣司が人工授精という手段ではあれ、咲良との子供を作ることに成功したのはつい最近のことだ。
 他にも、似たような例はある。
確実に、子供は増えるだろう。


 釣り糸を垂れながら、少し離れた浜辺に視線を移す。
美久の、小さな影を追いかける一騎の姿が見える。
その向こうに、パラソルを立てて、総士が赤ん坊を抱いて座っている。
 浜辺を走る、小さな姿は、そのまま、あの年頃の一騎と重なって見えた。
 あの頃。
紅音も、あのように、小さかった一騎を追いかけていた。
小さい一騎を追いかける妻の姿を見る、それだけのことが、どれほどに幸福だったのかを、失われた今になって、やっと分かった。
 幸福とは、そのように、とても小さなものなのだ、と、ようやく、知った。

 再び、浮きが沈みこむ。
今度も、メバルだった。
「ひとり一匹ずつになるように釣れるかな?」
メバルは、三匹目になっている。
あと一匹釣れれば良いのだが。

 こうしたこともまた、幸福というものなのだろう。
史彦は新しい餌をつけ、浮きを投げた。




 浜辺を歩いていた美久が、空を指した。
「とりさん」
「ああ…かもめ。かもめさん」
美久は、大きく首を傾げた。口真似をしようとするように、真剣に、
「も…かもさん…?」
「違うよ、かもめさん」
「…かもさん」
一騎は笑い出した。
「いいか、かもさんでも。美久、帽子、ちゃんと被ってなさい」
空を見るのに邪魔になったのか、帽子を取った美久の手を押さえる。

 美久は、この頃、良く喋るようにもなった。
同じ年頃の子供がいないので、分からない。
本当に、これで普通なのか、と不安になることも、しばしばだった。

 歩いていた美久が、しゃがみこみ、何やら拾ってきて一騎の手に渡す。
「なに、お父さんにくれるの?」
「うん!」
元気よく頷き、再び、走ってゆく。
 手の中にあったのは、小さな、貝のかけらだった。
そのどこが気に入ったものか。
小指の先ほどもない、小さな、破片。
それでも、美久にはとても素敵なものに見えたに違いない。

 しばらくすると、また同じような貝殻の破片を持ってくる。
「これも」
「うん? これもくれるの? ありがとうね。
でも、お母さんやゆうちゃんにも持っていかないと」
美久は、もじもじと俯き、指を組んだ。
「…みっかんないの…」
「ないの? じゃ、お父さんの分を上げようか」
「…おとうちゃんのは?」
今にも、泣き出しそうに、顔を歪める。
一騎は笑って、美久の肩を叩いた。
「大丈夫だよ、きっと見つかるから。とにかく、お母さんに見せてこよう」
「うん」


 「よく走るな、美久は」
苦笑して、呟く。
浜の奥の方では、総士が祐哉を裸にして日光浴をさせている。日焼けしすぎないように、と、薄いタオルをかけて、時々向きを変えている。
 美久に比べ、祐哉の方は発育が遅いような気がした。
まだ、寝返りも打てない。総士は不安がって、何度もあちこちに聞いて回っていた。その度、皆、大丈夫だ、と笑い飛ばした。
 多分、父の言っていたように、子供の成長は千差万別なのだろう。

 走る美久を追いかけて、ゆっくりと歩く。
総士は、美久に笑いかけた。
「何を持ってきたの」
美久は、持っていた貝の破片を総士の手に乗せた。
「これ、あげる。あのね、おとちゃのなの。でもね。
…でもね」
そこまで言って、わっと泣き出してしまった。
「どうしたの、美久、何を泣く」
一騎は苦笑した。
「お父ちゃんの分らしいぞ、それ。お母ちゃんのが見つからないんだって。ゆうちゃんのも。だから泣いてるんだ」
 貝殻はまだ、似たようなものがたくさん落ちている。
が、それでは、駄目なのだろう。
美久が拾った二つのものだけが、何か、彼女にとって特別なものだったのだろう。

「…じゃあね」
総士は微笑んだ。
「美久、探しておいで。見つかったらちょうだい。ね?」
「でもね、ないの」
総士の膝にすがって、わあん、と泣き出した。
眠っていた祐哉が身じろぎをする。
「美久、赤ちゃんが起きちゃうよ。泣いてないで、探しに行こう。お父ちゃんも手伝うから」
ぐすぐすと泣く、美久の手を引いて立ち上がらせる。

 うあ、と、細い声がした。
祐哉が目を覚ましたらしい。小さな手で、盛んに空をかいている。
「ああ、起きちゃったね」
総士は、祐哉を抱き上げ、そろそろ服を着せようか、と言って着替えを出した。
 さすがに、二人を見るのは疲れるのだろう。
一時、かなり太った総士も、今はやつれたようにも見える。
もっとも、妊娠前に、戻っただけかもしれない。

 祐哉もまた、黒い髪をしていて、総士は一騎にそっくりだ、と言っていた。
目が、良く似ている、とも。
逆に、今、美久の方は総士に似てきたように思う。
髪を伸ばしたら、乙姫に似ているかもしれない。
 もっとも、それは、口に出したことはなかった。

総士は、着替えさせた祐哉を抱いて、座り直した。
「一騎、もうじき昼にするからお義父さんも呼んでくれるかな」
「分かった。そいつ、タオルで包んどけよ。
潮風に当たりすぎると良くない」
「ああ、分かってる」


 美久を連れて、貝殻を探して浜辺を歩く。
彼女の探すところのものが、どのようなものか見当も付かないから難しい。
 「美久、見つかった?」
「ない…」
再び、美久はべそをかいた。
「泣くな」
そっと、小さな肩を抱き締める。
「諦めるな、美久。分かる? 探すのを、止めちゃ、ダメ、って事だよ。
…どんなのがいいの?」
「あのね…ここんとこにね」
貝殻の小さな破片の、ちょうど真ん中辺りを指で指す。
「ここにね、くろいのがあるの。それじゃないと、だめなの」
「…そうか」
 黒いもの、というのは、貝殻に入る、黒い筋だろう。
それがちょうど真ん中に見える破片でないと、駄目、ということらしい。

なるほど、確かに、それは難しそうだ。
「これだけ広いんだからきっと見つかるよ、美久」
再び、肩を軽く叩く。
「探すのを止めちゃ、いけないんだよ。分かるな」
美久の、ぷくぷくした両手を、そっと握る。

 この両手は、いつか、自分のもとを離れてゆくだろう。そして、その時には、もっと大きなものを探しているだろう。
 誰かが、今の自分と同じように、彼女が探すのを手伝っていることだろう。

 「美久。探しながらおじいちゃんのとこ、行ってみようか。何かお魚、釣れたみたいだよ」
 堤防の上の父は、今、竿から何か銀色に光るものを外していた。
きっと、釣れたのだろう。
「おじいちゃんの分も探さなくちゃね」
「うん!」
美久は元気良く頷き、ちょこちょこと浜辺を走り、時に立ち止まってしゃがみこむ。

 総士を見つけた浜辺は、あの堤防より、はるかに向こうだ。
まだ、あれから一度も行っていない。
 行かなくてもいい。

 もう、過去は振り返る必要もない。
おそらく、もう、あの浜辺に行くことはないだろう。
 過去と未来と。
繰り返される時間は、それでも、確かに未来に向って螺旋を描いている。

 何があっても、先に向って行かなくてはならないのだ。
自分たちがこれから先、どれだけ生きていられるのか、見当も付かない。
その前に、自分たちが見てきたこと、感じたこと、経験してきたこと、それらすべてを、次の世代に伝えていかなくてはならない。

それらは、やがては捨てられるものではあるだろう。

 未来への、確実な布石となって、そして、捨てられるだろう。
 今起こるすべてのことはやがて、未来のために捨てられるべく、そこに在るものなのだから。


 
 



 









                     END

John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/

2005/05/12
…月日のたつのは早いですなあ(笑)
あちこち削った…書きたいこと、まだあったのに。