やがて来る明日
家の中は静かだった。
外から聞こえる蝉の鳴き声以外、音はない。
祐哉はそっと、白木の戦艦を持ち上げ、窓際に置かれた机の上に置いた。
「親父。出来たぞ。どうだ」
小声で呟く。
木は、わざと塗装はしなかった。初めからそのつもりで、ひとつひとつ、丁寧にやすりをかけたのだ。
白木に、うっすらと浮かぶ木目が、美しい、と思った。
昔、父が使っていたこの部屋は、今は祐哉が使っている。
父のもので残っているのは机だけで、後は、すべて祖父が物置に持って行ってしまった。
否、あと、一つだけ、ある。
こっそりと持ち出した、父が使っていた教科書。
数学の教科書で、何故、それを持ち出したのか、祐哉は自分でも良く分からなかった。
畳の部屋の、中央に座り、机の上の戦艦を眺める。
それは、勇壮で、美しかった。
その威を表すことも出来ないままに、海底に沈んでしまった、古い戦艦。
「まだ沈んでるのかな…」
まだ、海の底で眠りについているのかもしれない。
活躍できなかったことを、残念に思っているのか、それとも、安堵しているのか。
安堵しているのかも、知れない。
ふと、祐哉はそう思った。
机の引き出しを開け、その奥に隠してある父の教科書を広げてみる。
今、自分がやっているのとさして変らない問題が並んでいる。
所々に、落書きや、メモがあって、それらも、今、自分がしていることとそれほど変っていない。
父も、自分と変らなかったのだ、と思うと、嬉しくなる。
半分伝説のようになってしまった父ではなく、そこにいるのは、ごく普通の中学生だった。
少し前に、祐哉は初めて、ファフナーに乗った。
軽い訓練で、大して疲れもなく、問題も起きず、周りの大人には、さすがだな、と言われた。
けれども、祐哉はまったく別の恐ろしさを感じていた。
自分が、変わってゆくのが分かって怖かった。
目の前に、自分を変えてゆく時間というものが、あるいは、それに似た、何かの力が目に見えたような気がして、怖かった。
飲み込まれていく、そんな感じがした。
それでも、自分たちはまだ、いいのだろう。
ある程度のことは事前に講習で教わっていた。
祖父からも話を聞いていたし、姉は、父が言っていたと言うことを詳しく話してくれた。
それでも怖かったのに。
まったく、何の予備知識も与えられないままに、あんなものに乗って敵の中に放り出された父は、何を思っただろう。
訓練ではなく。
敵の中、だったのだ。
文字通り、命がけだったのだろう。
映像で見ると、それは、とてもカッコよく思えた。
けれども、その中では、死と隣り合わせになった自分と同じ年頃の少年あるいは少女が、必死で戦っていたのだ。
父さん、強かったんだな。
素直に、そう思う。
決して、強い人間ではなかった、と聞いた。
必死だったのだろう。
恐怖と戦うことに、必死で、怯えながら、泣きながら、踏み止まっていたのだろう。
それが、強い、と思う。
そこに、踏みとどまった、ということが。
そして、その恐怖を色にも出さなかった、と言う母は、さらに強かったのだろう。
どんな思いだったろう。
記憶の中の母は、優しく、温かくて、思い出すだけで泣きそうになるのに。
それほどの強さが、どこにあったのか、と思うほどに。
祐哉も、姉と同じく、かなり幼い頃からの記憶がある。
ミルクを飲んでいる自分を、微笑んで見ている母の顔、そして、時々横から覗き込む、父の顔を、祐哉は覚えていた。
時に、楽しそうに談笑していることもあった。
日向が生まれる時に、何が何だか分からずに、ただ怖くて、祖父の膝にすがり付いていたことも、良く覚えている。
生まれたばかりの日向を抱いて見せに来た父が、嬉しそうに泣いていたことも。
日は傾き、部屋の中は暗くなってゆく。
玄関の開く音がして、祐哉は我に返った。
「ただいまー。祐哉? いないの?」
姉の声だ。
慌てて階段を駆け下りる。
アルヴィスの制服を着た姉がいた。その後ろに、日向もいる。
「祐哉…あんた、今日食事当番だったでしょ。
忘れてたの?」
「あれ? 掃除だったんじゃ…」
「お掃除は私よ、お兄ちゃん」
日向が小声で言った。
「あ…道理で片付いてると思った…」
「私、アルヴィスに行く前にやったもん」
「どうすんのよ、食べるもん、ないじゃない!
おじいちゃんももう帰るのよ?」
「分かったよ、すぐ作るよ、うっせえな」
とたんに、頭に拳骨が飛んできた。
「ひと言多い。自分が悪いんでしょう」
「……」
まったく、乱暴な女だ。
あんな姉に惚れている栄治の気が知れない。
急いで米を研ぎ、味噌汁を作っていると、着替え終えた日向が横に来た。
「私もお手伝い、するね。お魚、焼けばいいの?」
「あ、いい子だな、日向。うん、焼くだけでいいよ、その中にあるだろ」
冷蔵庫から魚を出した日向が、
「戦艦、見たよ」
と言って、にっこり笑った。
「完成したんだね」
「見た? かっこいいだろ。触ったりするなよ」
「触んないよ、すごくきれいで触れなかった。
かっこよかった。
…色は? ああいう色なの?」
「ん…そうじゃないけど。あの方がいいと思って」
「ふうん…」
「お喋りしない! 手を切るわよ、祐哉」
突然、後ろから美久の声がした。
「日向も。お兄ちゃん、自分が悪いんだからいいの。
それより、こっち、手伝って」
美久の言葉に、日向は祐哉を見、首をすくめて笑い、居間の方に行く。
味噌汁をかき混ぜながら、ふと、この光景も見たな、と、今更のように思い出していた。
父の背中で見ていたのだ。
食事を作る父の背中に背負われて。
今の日向のように、横に、母がいた。
時々、自分をあやしてくれた。
いきなり途切れた記憶。
急に、いなくなった人。
机の上に置いた、美しい戦艦の姿が思い出された。
その姿は美しくとも ――― そこには、やはり、多くの若い乗員がいたのだ。
彼らは、どんな気持ちだったのだろう。
初めからすべてを知っていたと言う母は、その恐怖に ――― 友人たちを、あるいは、自身を失う恐怖に、どのように耐えたのだろう。
記憶の中で、父も母も、穏やかに笑っていた。
それはきっと、すべての覚悟を決めた、その向こうにあるものなのだろう。
そこに辿り着いたものだけが、あのように、静かに微笑むことが出来るのだろう。
自分も、ああなれるのだろうか。
どんなに覚悟を決めたとしても。それでも。
いつかは、きっと、叫ぶのだろう。
助けて、と。
そう、叫び続けるだろう。
助けて、と叫び続けて、それでも、そこにとどまることが出来たなら。
もしかしたら、その時、自分は、本当に強くなれるのかもしれない、と、祐哉は思った。
John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/
2005/09/06