花の名前






 
  竜宮島は絶えず動いて、そのせいか、いつも暖かい。
それでも、庭の朝顔が咲くと、夏なんだな、と思う。
 毎年、美久は朝顔を育てる。
おまじないかもしれない。

 日向はその朝顔のすぐ傍に花を付けている、小さなスミレの花に、
「もうじき、朝顔、咲くね」
と、語りかけた。
 正確には、スミレの花に、ではなく、その花の辺り、だろう。

 最近通うようになったアルヴィスでも、学校でも、日向には余り友人はいなかった。
人に話しかけるのは得意ではない。
何を言っていいのか、分からないのだ。
 でも、それでも寂しいと思ったことはない。

いつからなのか、もう覚えていないほどずっと小さな頃から、日向には特別な友人がいた。
他の人には見えないらしい。
 と言っても、日向にも、はっきり見えるわけではない。
そこにいる、と言うのが分かるくらいだ。

 今、たくさんのつぼみを付けている朝顔は、明日の朝にはきれいな、可愛い花を咲かせるだろう。
 友人は嬉しそうに笑った、ような気がした。

 時間が出来ると、日向は縁側に座って、自分だけの友人とおしゃべりをする。
相手の言うことは、はっきりと言葉としては聞こえない。
 そんなことを言っているらしい、と、『感じる』だけだったけれど、それでも、日向には毎日、それが楽しくて堪らなかった。

 「今日、あなた、アルヴィスにいたでしょ」
日向は微笑みながら言った。
僅かに、空気が揺らめいたように感じる。
「ごめんね。私、行きたかったの。でも、おじいちゃんにそっちはダメだ、って言われちゃったの」
相手を失望させたような気がして、日向は慌てた。
「今度…今度は必ず行くから。あ、お兄ちゃん、連れて行っていい? お兄ちゃんと一緒だったらおじいちゃんもいいって言ってくれるんじゃないかな」
 しばし、空気の流れは止まり、やがて、再び、動く。

突然、空気の色は変わった。

 「日向。またお友だちとお話してるのか?」
祖父がいた。日向は小さく笑った。
「うん…でも、おじいちゃんが来たから恥ずかしがっちゃったみたい」
「…そうか…悪い事をしたな」
大きな祖父の手が、軽く頭に乗せられる。
日向は振り返って祖父の顔を見た。
 ちょっと困ったような、優しい笑顔を浮かべている。
この祖父が、日向は大好きだった。
そして、自慢だった。

 並んで腰を下ろした祖父は、頭に乗せていた手を、肩に移した。
 短く切ってしまったために、そこに今は髪がないのが、少し、寂しい。
「日向…また…髪、伸ばすか?」
「……」
どう返事をして良いか分からず、日向は俯いた。

 日向は、自分が、母によく似ている事を知っている。
そして、祖父は、そんな自分を見るのが辛かったのだ、と言うことも、分かっていた。
辛いと同時に、嬉しく思っていたこともまた、知っている。

 そう、祖父にとって、母は、自分の息子であった父と同じく、大事で、誇らしい存在だったのだ。

 日向は、再び、庭を見た。
友人は、確かに、まだそこにいる。

 「おじいちゃんがもし…伸ばしてもいいなら…私、伸ばしたいな…」
祖父は、軽く笑って庭を見た。
「お友だちはなんと言っている?」
「うん…あのね、そのお友だちも髪、長いの。お姉ちゃんみたいに、真っ黒で長いの」
「…そう…か…」

「ねえ、明日からお兄ちゃん、訓練っての、始まるんだよね?」
「…ああ。そうだ」
「お兄ちゃんと…今日、私が行こうとしてたとこ、行ってもいいかな…」
祖父は難しい顔をして黙ってしまった。

 やっぱりダメか。

兄と一緒でも、駄目な所らしい。

 「お姉ちゃんと一緒、なら?」
「…あっちはね、日向…普段、誰も行ってはいけないところなんだよ」
「…そうなの…じゃ、なんでお友だちはそっち、行こうとしたのかな…」
 長いこと黙っていた祖父は、やがて、まったく違うことを言った。
「そのお友だちは…名前はなんていうんだ?」
「分からない」
日向は、正直に答えた。
祖父は笑った。
「なんだ…毎日お喋りしてるのに、名前、聞かなかったのか?」
「うん…でも、私は勝手にスミレちゃん、って呼んでるけど」
少し恥ずかしくなって、日向は小声で言った。

 日向の、自分だけの友人の事を馬鹿にせずに聞いてくれるのは家族だけだった。
 学校の友人には、笑われてお終いだった。

 姉と兄、そして、この祖父だけは、むしろ、当然のことのように話を聞いてくれた。

 「あのね…名前、聞いた気もするんだけど、どうしても覚えられないの。不思議なんだよ。なんでかな…でもね、お花の名前みたいだった気がする…」
「それでスミレちゃん?」
「ううん」
日向は首を振った。そういうわけでは、ない。
「いつもあのスミレのお花の辺りに来てくれるから。
だからそう呼んでるの」
「…そうか」
祖父は軽く頷き、スミレの花の辺りを眺めている。
なんとはなく、祖父にも、その友人が見えているのではないか、そんな気がした。

 

 アルヴィスでは姉と日向はまだ配属は決まっていなかった。
その前に、やるべきことは山のようにあった。

 迷路のようなアルヴィス内の通路を覚えるだけでも大変だったけれど、それ以上に、わけの分からない訓練を、次々に受けなければならなかった。

 兄は、その日はやけに張り切っていた。
「今日からファフナーの訓練に入るんだって。
まだシミュレーションだけど」
「相当きつい、って噂よ」
かっちりと制服に身を包んだ姉は、ともすれば浮かれがちになる兄に、釘を指すように言う。
 ふわ、と、横を通り抜ける風に、日向は足を止めた。
「日向?」
姉が呼ぶ声がする。
「あ…ごめんなさい」
慌てて足を速める。
「どうしたの、日向。あなた、今日は忙しいのよ」
「うん…」
それから、やはり、気遣わしげにこちらを見ている兄を見る。
「お兄ちゃん、大丈夫だよ。こないだ、なんかの数値、高かったんでしょ?」
「あ? さあ。なんで?」
兄は、ぽかん、とした。
「あ…うん、何となく」
姉が笑い出した。
「日向と話してると何となく、ばっかりね。
…日向、訓練の結果は極秘事項なのよ」
「え?」
「内緒、なの。私たちには教えてくれないの」
「…でもお友だちが…」
そこまで言って、口を噤む。
兄が、ふうん、と唸った。
「こないだ、地下に行こうとしてたって言う、友だち?」
「…うん…」
もしかしたら、言ってはいけない事だったのかも知れない。
そう思うと、アルヴィスに行くのが、憂鬱になった。
このことが祖父にばれたら、怒られるかもしれない。

 「日向」
兄が、いつになく真面目な口調で、
「その話、黙ってろよ。誰にも言うなよ。でないと、そのお友だちとのお喋り、ダメって言われるぞ」
「…うん…分かった…」
「兄ちゃん、黙っててやるから。姉ちゃんも黙ってろよ」
「当たり前よ、馬鹿ね」
兄を睨み、そして、俯いて呟いた。
「あれに乗れても…いいことばかりじゃないんだから…」
「でも…きっと大丈夫だよ、お姉ちゃん」

 きっと、大丈夫だ。
日向はそう思った。
今、風の中に、その友人は、いた。
そして、確かに言ったのだ、大丈夫だ、と。
守るから、と。

 その友人が守ってくれるのか、それとも、他の何か、なのか、日向には分からなかった。
「…あのね…」
考え、言葉を継いだ。
「きっと…お父さんやお母さんが守ってくれる…んじゃないかな…」
言葉に自信を持てないままに、それでも、どこかに、間違ってはいないのだ、と、確信に近いものもあった。

 もうじき、祖父が迎えに出てくれるだろう。
その時には、友人は姿を隠してしまうだろう。
 日向は少し歩みを緩め、後ろに下がって、小声で、
「明日には名前、教えてね」
と、そっと呟いた。
本当に、小さな声で。
 でも、その友人には、聞こえているはずだった。
















John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/

2005/09/03