最後の夢・4
用意しておいた二つ目の点滴のパックとは別に、小さなカプセルを取り出す。注射器を持つと、不思議とこれまで止まらなかった指の震えが収まっていった。
それとともに、心の中も次第に落ち着いてくる。
やはり、司令には詳しく話しておいた方がいいかもしれない。
本来ならば詳しいことは患者の親族以外には知らせないことになっている。もっとも、そのような常識はかつての日本においてであって、ここではさしたる意味は持たない。
持たなくとも、医療に携わるものとしての意識がそれを阻んできた。が、総士の場合、すでに親族はなく、そして彼自身がまだ子供であり、自分以外に誰か知っている必要があった。
今の場合は史彦に任せるしかないだろう。
それに、一騎の協力は欠かせない。
二人の信頼関係こそが、おそらくここに総士をつなぎとめているのだろうから。
せめてきっかけがはっきりしていればいいのだけど。
小さな吐息を落としながら思う。
前に、はっきりしたきっかけがあったことはあった。
その時は、部屋に入って明かりをつけたときだ、といっていた。
いきなり灯った部屋の明かりが急激に戦闘時の意識に繋がって行ったのだろう。
しかし、だからといって光だけがきっかけにはならない。その時の心理状態、周囲の状況が大きく影響しているのだろう。それでなければ総士は日常、どこにいても倒れていなければならない。
そんな簡単なもんじゃない。
意識を共有し、それを受け入れることは、フェストゥムであれば無限大に可能だろう。彼らには自我がないのだから。
が、総士は人間だった。はっきりと自我というものを持っている。
常に彼は危ういところで自我を保っているのだ。
これでもっとパイロットが増えたら。
パイロットの数だけ、彼の自我は引き裂かれてゆくことになるだろう。
その上で尚且つ、その能力ゆえに、彼は自我を保ち続けるだろう。フェストゥムと同じように。
彼は常に狂気との境目を歩き続けるのだろう。
千鶴は背中に冷や汗が伝うのを感じた。
皆城公蔵は何もかも見通した上で自分の子供にそれを強いたのか。
ファフナーに乗る子供たちは、命を縮めることになる。
そして、ジークフリードシステムに乗る総士は、狂うことさえ、許されないのだ。
冷え切った手を握り締めて一騎はずっと総士を呼び続けていた。
総士の瞳は天井を這い、あるいは、笑うように細められる。
時おり叫び、身体をよじっていた。その度に声を大きくして呼び続けた。
もう限界だよ、先生…!
千鶴はどうしていつまでもこうして放っておくのだろう。
眠るようなら飲ませるように、とカプセルを一つ渡されていた。
しかし、一向に総士は眠る様子を見せない。
思わず点滴のパックを睨みつける。もうほとんど薬は残っていない。
眠らせる薬だって言ってたのに。
ちっとも効いてないじゃないか。
苛々と唇を噛み締める。何度となく噛んでいて、すでにがさがさになってしまっていた。
「総士!」
呼びかけても、その瞳はあらぬ方向を向いたままだった。
「総士……!」
泣き声になっていた。
大体。
ぽつん、と置かれたカプセルを見つめる。
どうやって飲ませたら。
総士がはっきりと気付いて、そして眠る様子を見せるようなら、という、なんとも厄介な、分かりにくい説明だった。
再び、点滴のパックを見つめる。
飛行機雲はまだ消えてはいない。
それを見つけて、思わず笑みを洩らす。
綺麗だ。
綺麗な線だ、と思った。どこまで続いているんだろう。
「脱出しろ、羽佐間!」
また声が聞こえた。
もう無理なのに。
身体をフェストゥムに括りつけたまま、自分はどこまでも上空を目指す。
雲がどんどん下の方に流れてゆく。
脱出したくとも、もう出来ない。身体はすでに半分近く同化され、身動きも出来ない。
「あれは…! 翔子!」
目の前の雲を追って思わず叫んだ。
どうなってるんだ。
総士から竜宮島に戻れ、と言われたことを思い出した。
だから自分の代わりに翔子が?
鳥肌が立った。まさかそんな。
「総士! どうなってるんだ、総士!」
嘘だ。何もかも嘘だ。
嘘であって欲しかった。これは悪い夢だ。
すでに追いつけない高さまで行ってしまった少女を、それでも必死に追い続けた。
今助けるから。間に合うから。
きっと間に合うから!
「救援が――― !」
……救援がくるのか?
確かにそう言ったのか、総士は?
間に合ったのか?
確かに渡したはずだ。―――に。
…誰に?
「総士!」
白い、何もない空間。
一騎の顔が見えた。
やっぱり迎えに来てくれたんだ。
嬉しくて、恥ずかしくて。
「守ってくれてありがとう」
一騎はそう言って手を差し出す。
それを握ろうとしたとき、光に包まれて眩しさに何も見えなくなった。
「総士! 総士、分かるか?」
「…見えない…かず…」
一騎君が良く見えない。
「まぶし……」
「少し暗くした方がいいのか? 総士」
「…………」
暗く…?
また飛行機雲が。
違う。これは点滴の管だ。私はまた倒れて―――。
私とは誰だ?
俺は誰だ?
「誰……」
「俺だよ、一騎だよ、総士!」
「……あ……」
目の前の一騎の顔をはっきりと捉えた。ぼろぼろと涙をこぼしながらしがみついてきている。
腕を強く掴まれて総士は呻いた。
フェストゥムに全身、貫かれて身体が言うことを利かない。
「無理だ! 羽佐間!」
「あ…」
目の前から光り輝く敵は消えていた。
「一騎……」
小さく呟いて、大丈夫だ、と言おうとしたとたんに、猛烈な吐き気に襲われた。
痛みはまだ続いている。全身が痙攣を始め、脂汗が滲む。
たまらず吐きそうになって口元を押さえる。
「総士、吐くなら吐いちゃえ」
半身を起こした総士の上に一騎の身体が背中から覆い被さってきた。目の前に差し出されたボウルの中に吐かれたものは胃液だけだった。
「まだ吐けるか? 総士、苦しいかもだけど、ちょっと我慢しろ」
言うなり、後ろからみぞおちの辺りをぐい、と締め付けてくる。
その衝撃に食道のあたりに詰まっていたものが一気に吐き出される。
「少しは楽になったか? 俺が分かるか?」
一騎にこんなところを見せてしまって、と躊躇う間も何もなかった。一騎はすぐさま、用意してあったらしいコップを持ってきた。
「塩水だよ、これでうがいしろ」
言われたとおりにしながら、これは一騎も遠見千鶴から事情を聞かされ、指示を受けたのだろう、と憂鬱になっていた。
同時に、わずかながら喜びも感じていることは、否定できないでいた。
「総士、眠れそうか?」
「え?」
眠れるかどうかは、分からなかった。もっとも、身体は鉛のように重い。こういう時は睡眠は必要だ。
「……眠るように……努力してみる……」
一騎の顔が泣き笑いに歪んだ。その指が何かを口元に押し込んでくる。痛み止めのカプセルだ。
「これ、飲ませるように遠見先生に言われたんだ。
水、こっち…飲めるか?」
カプセルの表面が唾液で溶け始め、舌に貼り付いている。それを舌の先で確かめながら、これを飲んだら消えてしまう痛みを惜しんでいる自分に驚いていた。
あの痛みは、少女の空想に繋がっていた。
自分を迎えに来る一騎、という、ただそれだけの夢。
一騎の温かい腕が抱き込むように肩を抱えてきた。
「水…飲めるか…少しずつ…な」
水差しを持つ手が小さく震えていた。
「…一騎?」
見上げると一騎は肩に顔を埋めて泣き出した。
「総士…お前……翔子も…甲洋も……」
言葉は嗚咽にかき消される。しばらく一騎は水差しを持ったまま泣き続けていた。
「俺は…分かってるから…総士…」
ぐすっと鼻をすすり上げ、再び肩を抱き寄せる。
これは空想ではなく。
自分だけのものだ。
総士は小さく頷いて一騎の胸に身体を預けた。
潮の引くように痛みが消えてゆき、代わって眠気が襲ってくる。その向こうにまだちらつく光の中の幻影。
伸ばされる手と、掴もうとする手と。
乙姫もそして自分も、いつかは消えてゆくだろう。
それでもその時にこんな夢が見られるなら。
恐怖に耐えられるかもしれない。
ぼやける視界の中で、一騎がいつまでも自分を見つめていた。
John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/
2007/05/01