最後の夢・2






 
    軽やかな足音は小走りにこちらに向っている。
一騎は小さく息を吐いた。総士の額を拭う手が震えている。早く誰かに来てもらいたかった。
たちの悪い冗談であって欲しかった。


「一騎君、どう?」
「あ、先生…!」
千鶴の顔を見たとたんに、気が緩んだのだろう、涙がどっと溢れた。
「今…俺のことが分かったみたいだけど…でも…」
先ほどからずっと、総士が自分を認めているとはどうしても思えないのだ。何がどうなっているのか分からない。恐怖に足が竦んでいた。このようなことは生まれて初めてだ。

「総士君…皆城君、わかる?」
千鶴は総士の手首を掴んで強く呼びかけた。
答えはない。総士の目は何かを探すように虚空を彷徨っている。

やがて、その両手が何かを掲げるように持ち上げられた。抑えようとした千鶴の手も軽く振り払われる。
「……皆城君…!」
一騎は呆然と見ていた。
 千鶴は、確かに総士の両手首に全体重を乗せるようにして抑えていたのだ。それを、いとも軽く振り払ってしまったのだ、総士が。
その瞳は変わらずに何かを探しているように思えた。



 自分に力があれば。
一騎が憎いわけではないのだ。彼に対する怒りが、本当は自分に対するものであることくらい、誰よりも良く知っていた。単なる八つ当たりに過ぎないことは、良く分かっていた。

 自分にさえ、もう少し力があれば翔子を救えただろう。
あるいは―――
翔子が一騎の場所を守ろうとしたように、自分もまた、翔子の居場所を守ろうとしただろう。そして、それが出来たはずだった。

 怖かったろうな。痛かったろう。
その恐怖は、その痛みは自分が代わって負う事ができたはずだった。

 一騎くん。

翔子がそう呼ぶとき、そこに込められたあらゆる想いは切なく胸を締め付ける。それでも、その想いも共に、守ってやりたかった。



 確かに二人、乗り込んだ。
うまくいった。
もうこれ以上、誰も犠牲にしたくない。

 それに、この任務から戻れば両親も少しは見直してくれるだろう。


光を散らしていた海面が大きく歪み、黒い影が現れる。
同時に、背後からの衝撃に体がしなる。

 救命艇を……!
必死の思いで船を差し出す。
 これを一騎に渡せば。
海面には一騎が居るはずなのだ。




「総士、おい…っ!」
嗚咽がこみ上げてくる。このような総士の姿は見た事がなかった。
初めはうなされているだけだと思った。
けれども彼は眠ってはいないし、その瞳は決して空ろなものではなくしっかりと虚空を見据えている。
自分には見えない何かを、確かに彼は見ているのだ。

一騎は夢中になって伸ばされた総士の腕を掴んだ。
自分に向けられたような気がしたのだ。ふっと総士の口元が緩む。
「……かず…き……た……しか……に……」
それだけの言葉が聞き取れる。
千鶴はその状態を黙って見ている。見ている、というよりもむしろ観察している、と思えるような千鶴の態度に一騎の苛立ちは募った。
「先生…っ!」
苛立ち、叫んでいた。
再び、悲鳴が上がり、総士の体が大きく跳ねる。

「一騎君、手を離さないでね」
千鶴は総士から目を離さないまま、強い口調で言った。
「出来るだけ呼びかけるようにして。すぐに準備するわ。メディカルに運ばないと」
言うなり、千鶴は急ぎ足で部屋を出て行った。
「先生!」
薬くらい、持ってきてくれると思っていたのに。

 これが前に聞いたフラッシュバックだということは一騎にも分かったけれど、このようになった時に、どうしたらいいのか、ということまでは分からない。

確か、薬が洗面所においてあるはずだった。
けれども今は手を離すわけに行かない。
総士はまるでベッドの中に沈み込もうとしているかのように身体を押し付けていた。
「…総士…!」



 何かに海底に引き込まれる。
 急激に加えられた水圧に激しい頭痛と眩暈が襲ってきた。頭の上に光を乱反射する海面が映る。
万華鏡のようだ。
ふと、そんなことを思う。


 「――― が来る…!」
何が来るって?
誰の声だったろう。
「――― !」
また、声が聞こえる。
「…し!」
不意にうねっていた光の渦が消えた。
「総士! 総士!」
「……」
誰だ、と聞こうとして、躊躇い、その顔を見つめる。
意識が急激に浮かび上がる。そして、自分を見つめているのが一騎だと気がついた。
確かに、彼に渡したはずだ。なのに何故このようなところにいるのだろう。
「……総士…今…先生が来てメディカルに行くって…先生…薬もくんなくて」
嗚咽交じりの言葉に、さらに意識は引き上げられる。

ここは自分の部屋じゃないか。
握られる手の温かさに、何度も呼ばれる名前に安堵してその手を握り返す。

「大丈夫だ。なんともない」
「なんともなくないだろ…っ! 大丈夫か? すごい汗だぞ」
言いながらもう一方の手にしたタオルで額を拭う。
そのタオルの繊維の一つひとつまでが鋭い針か何かのように感じられた。悲鳴を堪えるのに必死になっていた。
全身がむき出しの神経の固まりになったかのようだ。




 モニターを埋め尽くした画像に千鶴は大きく息を吐いた。
間違いない。総士は甲洋が同化された時の意識を追っている。それも、無意識に。
モニターには、かつて甲洋が同化された時の画像が映し出されていた。リンドブルムと、ジークフリードシステムの両方にデータは残っている。
千鶴は唇を噛んだ。

スタッフはすでにストレッチャーを転がし、総士の部屋に向っている。
ここに連れてきたところで、一時的な治療しか出来ないのだ。
千鶴は真壁史彦に連絡を入れた。少なくとも、半日は時間が欲しいと。

半日。
それでもここ竜宮島では精一杯なのだ。
本来ならひと月くらいは時間をもらって総士を眠らせ、治療に当たりたい。しかし、そのようなことは許されなかった。
治療といっても、痛みを感じさせないだけのものでしかない。彼の精神面での治療は薬はあっても使うことは出来なかった。あのシステムに乗っている以上は、それは出来ない相談だった。

皆城公蔵の顔を思い浮かべていた。
この計画には、自分ももちろん、深く関わっている。
その時に、ここまで予想できただろうか。
千鶴は軽く首を振った。予想できていたはずだ。だからこそ、総士をわざわざ人工子宮で誕生させたのだ。

 司令。
今は亡き皆城公蔵に語りかける。
 子供たちをファフナーに乗せる計画については誰もが反対しながらも受け入れるしか、なかった。
今度も結局はそういうことなのだ。
受け入れるしか、ないのだろう。


















 








John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/

2007/04/28