最後の夢・1






 
 

  背丈ほどもある草の葉が顔を、頬を叩く。思わず頬に手を当て、濡れた感触にその手を見る。
そこに残るかすれた血のあと。
薄くて硬い葉は、容赦なく頬を、額を切る。

――― 傷だらけになっちゃう。

必死に走る。
びっしりと生えた草に邪魔されてうまく走れない。
強い風に帽子が飛ばされる。
――― ここはいったい……?
と、いきなり足元の土が崩れた。

「きゃっ!」
思わず悲鳴を上げた。
――― 足元に穴が?

 落ちる。
どこまでも落ちてしまう。
「―――!」
呼ばれた。
と思った。
確かに今。


伸ばされた手が見え、思わずそれにすがりついた。
「…一騎…くん…?」
「大丈夫か? そこはモグラの穴が多いんだ。気をつけて」
言いながら手を引いてくれる。その手は、温かだった。
何とか這い上がろうとその手をさらに強く引いた時、不意にその感触が消えて恐怖にまた叫びそうになる。


落ちる……!

そこで目が覚めた。
「総士…! 大丈夫か?」
「……一騎……」
くん、と続けようとして、息を呑んだ。
聞こえた声は自分のものではないように思えた。

ここはどこだろう。
見慣れない部屋だ。
まるで病室のように何もない、無機質な、壁に写真が一枚きりの部屋。

「総士…?」
声の方を見る。間違いなく一騎の声。一騎の。
そして、ここは―――。





「…一騎…?」
声を出してみる。そうだ、これは自分の声だ。
そしてここは自分の部屋だ。

「総士、大丈夫か? お前、倒れて―――」
言いさして顔をゆがめる。ぐすっと鼻をすすり、服の袖で顔を拭った。

「……ああ……」
少しずつ、思い出してきた。
部屋にいたのだ。

気を抜いていたのかもしれない。
それ、に襲われるのは夜のことが多かった。
夜、もう寝ようか、という時が多いのはきっと気が緩むからだろう、と思っていた。
まさか昼間に、しかも、一騎と一緒にいる時にこのような。


 風に飛ばされた帽子。
頬に纏わりつく黒い長い髪。

――― 自分は誰だ?


 いや、あれはただの夢だ。
そう思おうとした。
 薬を飲んだのはいつだったろう。

記憶を辿ってみる。
 今日は朝から会議で、その前に飲んだはずだった。会議室から戻り、わずかな休み時間を一騎と過ごしていた。

 そこまでしか、覚えていない。
と、いきなり強い衝撃を感じて思わず仰け反っていた。
悲鳴を上げたかもしれない。
その衝撃は立て続けに襲ってくる。
 「無理だ、羽佐間!」
声が聞こえた。
そんなことを言われても、今さら武器を持ち替える余裕もない。
がむしゃらにかかっていくしかないのだ。ここは、自分が守る。

 一騎の帰る場所を。
約束したのだから。


 時おり、窓の下を彼は通った。
たまに見せる笑顔が眩しい。見ていて気持いいほどに軽やかに走る。
 彼の走る場所。
彼が笑顔でいられるこの場所を、失いたくない。荒らされたくない。

――― また近藤君、負けたんだよ。
昨日、真矢が可笑しそうに首をすくめて教えてくれた。
『一騎君に勝ったことないのに。懲りてないよね』
見たかったな、と思った。
近藤剣司を軽く投げ飛ばし、その後は息を切らせることもなく、カバンを持って帰った、という。

見ていたら、一騎君に頑張って、と声をかけたのに。
そんなこと、恥ずかしくて出来ないけど。


 ここを約束どおりに守り抜いたら。
一騎君、褒めてくれるかな。
 思わず、笑みが漏れた。
敵が目の前にいるというのに。

全身が痛む。あちこち切り裂かれるような痛みが走る。その度に、一騎の顔を思い浮かべた。
 大丈夫か? 無理すんなよ、羽佐間。
「うん、大丈夫。ありがと」




その声が間近に聞こえた。
「総士?」
「………かず……」
また、あの部屋だ。
何故、自分はここにいるのだろう。
瞳を動かすだけで、ずきずきと頭を刺し抜かれるような痛みを覚えた。
うろたえたような一騎の顔。
「今、遠見先生に連絡したから。じき、先生も来るよ。
総士、しっかりしろ」
「…………」
 また、夢を見ていたのか。
あれは夢だったのか。
「…一騎」
聞こえる自分の声に、激しい違和感を覚える。こんな声だったろうか。
「なに」
一騎の顔が間近に見える。
「……俺は……何か言ったか……?」
「…あ……ん…うん……」
その曖昧な、困惑したような表情で自分が先ほどの言葉を口にしたのだ、と悟った。
一騎は今にも泣き出しそうな顔で見つめている。
 前に、倒れた自分を負ぶってくれた時にも一騎はこんな顔をしていた。

そして、おぶって学校まで走ってくれたのだ。
あの時の風の心地良さは忘れられなかった。
 こんな風に走れたら。
いつもいつも、走る自分を想像していた。



「痛む?」
どこが痛むというのか。
痛いという感覚すらなくなるほどに攻撃を受けているのだ。体液はあちこちから流れている。じき、コントロールも利かなくなるに違いない。
そうなる前になんとか。

コントロールが利かなくなる前に、目の前の敵をどうにかしないと。それでないと、約束が守れない。


 一騎のことは大好きだった。
好きだと言ってもらえたらどんなに嬉しかっただろう。
でも、たとえそれが叶わなくても。
自分が彼のために出来ることは、彼との約束を守ること、それだけだった。
だからもう、好きだと言ってもらえなくてもいいのだ。

こんな不完全な自分でも、何か出来ることがある。
それが無性に嬉しい。
ただ、それだけだった。




















 


John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/

2007/04/27