夢魔・３
目の前に白いものが広がっている。それを天井だ、と認識するのに時間がかかった。
腕が重い。どこかだるく、重苦しい感じがして、肩から先、引っ張られているような気がした。
何故だろう、と考え、巡らせた視線の中に点滴のパックを見つけて納得した。
「ブドウ糖だって」
声がした。誰もいないと思っていたから驚いた。
かすむ視界にぼんやりと影が映る。人、だった。
その影は動かずにじっとこちらを見つめている。
「……一騎……」
一騎は安堵したように軽く笑った。
「どう？ 何か喉通る？ 西尾のおばあちゃんとこでコーヒーゼリー買ってきたんだけど、食べられそう？」
気を遣ってくれているのだろう、抑えた声ではあるが、間違いなくそれは一騎のものだ。
総士は頷き、体を起こした。
がさがさと袋を漁る一騎の横顔はいつもと変わらない。
壁にかかった時計は九時十分を指している。夜なのだろう。
西尾商店が開いていた、ということはあの直後ではないのだろう。あの時間ではまだ開いていないはずだ。
ということはまた自分は数時間飛んだのだろう、と思う。
飛んだ、としか表現のしようがなかった。朝、メディカルに運ばれ、扉が閉じたところまでしか覚えていないのだ。
「遠見先生の話だと安定剤も注射したんだって。よく眠れないようだから、って言ってた」
内心を読んだかのような一騎の言葉だった。
「そうか……」
袋からゼリーのカップを取り出し、さらにスプーンどうしたっけ、と独り言を言っている一騎の動きを目で追う。
そこには叫んでいた彼はいない。
攻撃をよける間を失い、鳥肌を立てて息を詰めていた彼。
それはまるで自分の事のように思え、全身が粟立つのを感じた。
「一騎」
「うん？」
あのような戦いがあるとしたら、それは自分のせいではないか、ふと、そんな思いが過ぎる。
戦闘中に自分の声は一つも聞こえなかった。
あれは一体。
「きっと……お前たちを守るからな」
あのようなことのないように。
なかなか開かないカップのふたを開けようと苦心しているらしい一騎はちら、と目を向けて、ありがと、と答えると軽く笑った。
その笑みは少し大人びて見えた。
やっと開けたカップにミルクを流し込みながら、さらに頼むよ、と付け加える。
口元に笑みを浮かべたまま、その目はゼリーにいかにうまくミルクを絡めるかに集中しているらしかった。
「ほら、うまそうだよ、総士」
自分にカップを渡されると思っていた総士は慌てた。一騎は端から自分で食べさせる、ということは考えていないらしい。多少の困惑を覚えながら口に流し込まれるゼリーを飲み込む。
「美味しい？」
「ああ。ありがとう」
それは嘘でもなんでもなかった。からからに乾いた喉に冷たいゼリーは心地良かった。
一騎は嬉しそうに笑い、さらにスプーンですくって口元に運んでくる。
「お前を信じてるし、頼りにしてるけど」
ゼリーを混ぜながら独り言のように呟いていた。
「だけどお前も」
ひた、とこちらを見据えた瞳は、これ以上ないような真摯な色を湛えていた。
「お前も一人で抱え込むなよ。俺たちがお前を守るから」
「……」
「何か不安なこととかあったら言ってくれよ。
お前はいつも何も言わないだろ。それってさ。俺たちを信じてない、ってことだろ」
もう、一騎は笑ってはいなかった。それどころか、怒っているようにさえ見える。
総士は無言で差し出されるスプーンの先を見つめていた。
あの夢のことを話そうか、と思った。
一騎は何というだろう。縁起でもない、と怒るかも知れない。
ぞくっと首の後ろに悪寒が走る。
一騎が何というかよりも、自分の口から言うことなど、出来そうにない。
夢の中の恐怖が再び襲ってくる。
あれが確かに夢なら。
「総士？」
声がどこか、遠くから聞こえる。目の前にあったはずのスプーンが見えない。
「総士！」
強い力で肩を掴まれてはっとした。
一騎の顔が間近にあった。
もたれるようにして倒れこんでいたらしい。体を起こそうとしても、どうしてもいうことを聞かなかった。
「気分悪いのか？ 横になる？」
「いや……」
「先生呼ぶか？」
矢継ぎ早の問いにただ、首を振り続ける。
もう少しこうしていたかった。
一騎にもたれて、この体温を感じていたい。
一騎の胸の鼓動が直接耳に響く。もっと聞いていたい、と思った。
強く顔を押し付け、一方の手で一騎の服を掴む。
「あ、ゼリー」
一騎の慌てたような声は振動となって伝わってくる。
それがこの上なく総士を安堵させた。
「こぼれちゃうよ」
押し当てた耳の奥深くまで響く声が愛しい。
「寒いのか？」
少し不安げな声。
「手が冷たい」
シャツを掴んでいる手を、大きな手が包むように握ってくる。
それは朝と同じく、温かかった。
何か言わなくては、と思う。しかし、言葉が出ない。
腕に鈍痛があって掴んでいる手に力が入らなくなってきていた。
「大変だ、点滴、終わってるじゃんか！」
一騎は声を上げて身を乗り出し、コールボタンを押した。
腕から続く点滴の管を赤い液体が上ってゆくのが見えた。
自分の血だ……。
ぼんやりとそれを見つめ、思った。
間違いなく、自分もまた、赤い血を持つ人間なのだ。
ばたばたと物音が続き、さらに千鶴の声がした。
「あら、逆流しちゃってるわ。痛かったでしょうに。
何でもっと早く言わないの」
てきぱきと処置をしながら立て続けの言葉が吐き出される。
「すみません、気がつかなくて」
「あなたじゃないわ、総士君よ、痛かったはずよ」
総士は千鶴を見上げ、微笑んだ。大丈夫、というつもりで。
微笑んだ、つもりだった。
でも、顔の表情は動かなかったかもしれない。
どうしたら嬉しいのだと伝えられるだろう。
痛みは確かにあった。
痛みがあり、一騎の温もりがある。
それは今が現実だと教えてくれるものでもあった。
懸命に千鶴に謝り、こぼれてしまったコーヒーゼリーを見、掃除しようにも自分に捕まえられているために何も出来ずに弱り果てている一騎。
確かに、自分と一騎はこの現実世界で繋がっていた。
この現実に置いて悪夢のような事態が起こったとき。
その時は目覚めることが出来ないだろう。
現実というものは目覚めることのない夢なのだろう。
そう思ったとき、何故か安堵感に包まれていた。
夢をもう一度見ることが出来ないように、この一瞬も繰り返すことは出来ないのだ。
一騎の腕によってベッドに寝かせられる。急激な血圧の低下で目がくらみ、されるままになっているしかなかった。
それでも一騎の手は離さなかった。一騎もまた、ずっと手を握ってくれている。
これで充分だ、と思った。
確かに現実と思えるものが、ここにはあった。
それだけで、生きていくに値するのだと。
一騎と繋がっていられる、それだけで良かった。
現実がどれほどに過酷でも、目覚める時がこないならば向かってゆくしかないのだ。
「一騎」
「ん？」
手を握ったまま小首を傾げる。
「……いつか……話すよ」
「うん」
一騎は頷いた。嬉しそうだった。
「待ってるよ、総士」
一騎は握った手を軽く揺らした。
「本当に抱え込むなよ、総士。なんだって受け止めるからな」
笑いながらの言葉が、気負っていないその様子が嬉しくて総士は握った手に力をこめた。
今回のことはきっと話せないだろう。
話す必要はない、と思った。別の形で、もっと一騎に甘えられるだろう。
そのように努力できるだろうと思っていた。
John di ghisinsei http://ghisinsei.sakura.ne.jp/
2009/04/03