夢魔・2






 コーヒーの香りが部屋に広がる。
かき混ぜるスプーンとカップの当たる澄んだ音が響く。


 あれは夢だ。

カップを机の上に置き、椅子に腰を下ろす。
自らに何度となく同じ言葉を繰り返しながら総士は額を押さえた。

 断じてフラッシュバックではない。

戦っていたあの感覚は一騎のものだ。クロッシングを繰り返すうち一騎になり切って戦う夢などを見てしまっただけだ。


 いくら言い聞かせても、その一方で本当にそうなのか、と問う自分がいる。

 フラッシュバックじゃない。

 問い続けるもう一人の自分に罵声を浴びせたい気分だった。

くしゃり、と髪を掴む。
地肌がちりりと痛んだ。

 あれは夢だ。ただの悪夢だ。



――― 不意に。
ぞくっと寒気が腕を駆け上がり、思わず両手できつく腕を掴んでいた。

 高々と掲げられた金色の触手の先にあった、緑色の機体を思い出していた。


 ――― 剣司。

ざわっざわっと波のように全身に悪寒が走る。
目前まで迫ってくる触手の映像が何度も繰り返し、脳裏に蘇る。

いきなり、目の前の電話が鳴った。
アルヴィスの内線だった。誰からか、は出なくても判る。
遠見千鶴か、真壁史彦だろう。
取るべきかどうか、迷う。
電話によって夢が裏付けられたら、という思いは拭えなかった。

それでも、頭の一方に取らなくては、という思いもある。
コーヒーカップから指を外そうとしたとき。

入れたばかりだったはずのコーヒーがすっかり冷め切ってしまっていることに気がついた。


ぞっとしてカップを見る。
このようにしていつの間にか時間が過ぎていたのではないだろうか。
自分で忘れていただけではないのか。
自分で忘れていた間にすべてが終わり、そして気がついたのが起きた時、だったのではないだろうか。



血圧が急激に低下してゆくのがわかった。体温が下がってゆく。
同時に全身からどっと冷や汗が噴出していた。

冷たくなった体に汗はなおのこと冷たく、寒さに体がぞくぞくと震えた。

それでも、欠席の理由だけでも、と鳴り続ける電話に手を伸ばす。
フラッシュバックだったらその対処法も千鶴に聞かなくては。

 いや、あれはフラッシュバックではない。

あれがフラッシュバックだったらあの戦いは実際にあったことになるのだ。
そのようなことは認めたくない。

総士は電話は無視して毛布を頭から被り、床に転がった。
汗に濡れた下着が皮膚に張り付き、その冷たさに震えが出る。自分の体温で温めることは出来なかった。
それどころか、汗で体温を奪われるばかりのような気がする。


電話は止み、再び鳴り始める。
決して広いと言えない室内で、それは異様に大きく、床伝いに細かな振動となって総士の頭に直接響いてくる。

総士は頭蓋骨の中で鳴っている目覚まし時計、というものを想像していた。
それは全ての思考を吹き飛ばす。
だから、電話が鳴っている間のほうが嬉しかった。

夢の続きを見ずにすむから。



その電話もいつしか沈黙していた。

静寂だけが部屋を支配している。
汗は止まらなかった。体は冷え切って全身が震えている。
今の自分はさぞかし滑稽に見えることだろう。
たかが夢に怯えて震えて床に転がっているなんて。

 夢だ。あれはただの夢だ。

何度も何度も言い聞かせる。
一騎があんなことになるはずがない。
剣司も。咲良も。

 夢に間違いない。
何故なら自分はあの対峙した敵の姿を思い出せないではないか。
思い出せるのは触手だけだ。
息を呑むほどの美しさを見せながら迫ってきた金色の触手だけ―――

とたんに最後に貫かれた瞬間の映像が蘇って総士はうめき、体を丸めた。


 一騎は無事だ!

強く自らに言い聞かせる。
胸の中で何度も叫びながら、自分で驚いていた。

自分はこんなにも一騎に依存していたのだ。
彼がいなくては何も出来ないほどに。
ただ床に転がっているしか出来ないほどに。

一騎が死んだかもしれない、それがこんなにも怖い。
確証もないのに、恐怖に囚われて冷静にものを考えることすらできなくなってしまっている。



突然、ドアを叩く音がした。
総士は毛布の中できゅっと体を小さく丸めた。
寒いせいだけではない。

ドアの向こうに誰がいるのだろう。
誰かが、最悪の結果をもたらすかもしれないのだ。
自分が今まで考えていたことを打ち砕く誰かがいるかもしれないのだ。

 「一騎」
小さく呟いた声は震えていた。
何があっても一騎には無事でいて欲しい。

 何があっても。


 ――― もし、これが剣司だったら。
自分はここまで、発狂せんばかりになっただろうか。

剣司も大事だ。

言い訳のようにしか聞こえない。その身勝手さが、あのような夢を見せたのだ。
勝手だ。

 それでも。

 すまん、剣司。

剣司や咲良も大事な友人には違いない。
それでも、自分の心の奥深くに触れ、潰されそうな孤独を理解し、そこから解き放ち、そっと慰撫してくれたのは一騎しかいなかったのだ。


 一騎一騎一騎。

頼む。無事でいてくれ。

ドアを叩く音を遠くに聞きながらひたすらに祈り続ける。



「総士!」
突然の声に反応することが出来なかった。
体を動かそうとしても動かない。まるで凍りついたかのように全身が硬い。

「総士! 大丈夫か?」
誰かに抱きかかえられる。額に熱い手が触れた。
「うわ。冷たい! 総士、おい、大丈夫か? しっかりしろよ!」
抱えた腕は力強く、そして温かい。力を失って揺れるだけの自分の首が恨めしい。
誰なのか、見たかった。

「皆城くん!」
別の声が聞こえる。どの声も、昔の映画のように不鮮明で籠もって聞こえた。

床からの振動が、大勢の人やものがここに来ることを教えてくれる。
温かな、大きな手は絶えず頬を、首を額をさすり続けていた。

手ではない、別の温かいものが頬に触れた。
「……一騎……」
目の前に一騎の顔があった。
間違いなく、一騎だ。
再びあの温かさが頬に伝わる。手ではないものは、一騎の頬だった。
「どうしたんだ、総士、大丈夫か? 俺……心臓が止まるかと思ったじゃないか!」

あの夢が蘇る。総士は全身の力を振り絞って一騎の手を掴み、胸に抱き寄せた。
熱い手だった。冷たい自分の手とはまるで違う、生命力に溢れたような大きく、力強さに満ちた手だった。

 良かった。

やはり、あれは夢だったのだ。
悪夢だったのだ。
何故、あのような夢を見たのか見当もつかなかったけれど、一騎が今、ここにいる。それが何より嬉しかった。

「今」
一騎は戸惑ったような表情を浮かべながら言った。
「準備してるから待っててくれ。メディカルで休んでた方がいいよ、総士」

離れようとする手を抱え込む。
「総士……」
「頼む……少しでいいんだ……」
もうしばらく、こうしていたい。

存在を、確かに一騎はそこにいるのだ、ということを確かめていたい。

一騎はどう思ったのか、軽く頷いただけで、手をそのままに、全身で体を抱えてくれた。
「冷え切っちゃってるじゃないか……風邪でも引いたのか?」
片手だけで、汗を拭ってくれる。それだけでだいぶ体温を取り戻せた気がする。
気がつけば髪まで汗で濡れていた。
タオルを持った手が、丁寧に何度も行き来する。手の動きにつれて揺れる一騎の黒い髪の影に、まだ拭くべき所はないかと探す目の動きに無上の喜びを覚える。


彼は確かに生きてここにいる。

どうかすると泣きそうになる。
込み上げる嗚咽を懸命に堪えていた。




いずれ人は死ぬだろう。
自分たちは人よりその確率が高いだろう。

もし死ぬなら。
自分が先に逝きたい、と思った。
一騎に残されるよりも。

あんな想いはもうしたくない。残される一騎は悲しむかもしれない。
悲しんで欲しいと思う。
それがどれほどに我儘で身勝手な願いか知っていても願わずにいられない。



メディカルに運ばれる間も、一騎はずっと手を握ったままついてきてくれた。
この時間は確かだ。確かにこれは夢でもなんでもない。
その一方でまた覚めるときがあるのかもしれないと怯えてもいる。

今の夢から覚めるときが。



メディカルの扉が開く。
「ここまでよ」
という、千鶴の声とともに一騎の手が離れてゆく。

総士は必死にそれを取り戻そうとした。
手を、取り返したかった。

そうしないと、今の夢から覚めてしまう気がした。
今が夢であるならば。











 
 



 


John di ghisinsei  http://ghisinsei.sakura.ne.jp/

2009/04/02