天使の輪






 
  奥の方からごそごそと絶え間なく物音が続く。
一騎は芹の家の玄関口に腰を下ろしたまま、奥に向って声をかけた。
「あの…もしなかったらいいよ…なんか…悪いし」
「ううん…待って…この前片付けたばかりなのよ」
こちらからは押入れの奥に体を突っ込んだ芹の足元しか見えない。
「あ、あった」
押入れの中から弾んだ声がした。

「これ、これです、こなぽん。まだ十分使える。材料も全部あるし」
「…こなぽん…」
初めて見るものだ。小さなキッチンのようなもので、フライパンまでついている。
「粉もありますよ」
芹が出したものを見て、一騎はただただあっけに取られていた。
世の中には、いろいろなものがあるものだ。



 そうしが何を思ったか、自分でドーナツを作りたい、と言い出したのは昨日のことだった。
といって、まさか本当にやらせるわけにもいかない。

今日の訓練中、何気なくその話をしたところ、芹が本物そっくりに作れるおもちゃを持っている、というので貸してもらうことにしたのだ。

「本当に作ってる気分になれるの。危なくないし、ちょうどいいと思います」
「そんなのがあるの」
「ええ、実際に作る時の練習にもなりそうですよ」
芹はそういって家の中を探し回ってくれたのだ。

「ありがとう、芹ちゃん」
「どういたしまして。うまく作れるといいですね」
「ああ」
一騎は頷いた。



 それにしても、そうしはいきなり何を考えたのだろう。
ドーナツが好きなのは知っていたし、カノンの手作りのものを気に入ってるのもわかってはいたけれど。


 まさか自分でもカノンと同じように作れる、なんて思ってないだろうなあ。

少々不安になりながら家に戻った。
「そうし」
「おお、お帰り。今日は遅かったな。おやつに芋をふかしておいたぞ」
「あ。ありがとう。それでこれ。お前に。ドーナツが作れるやつだよ。お前、作りたがってたろう?」
「おおっ!」
そうしの背中の羽が小刻みにぱたたたと羽ばたいた。
「作れるのか! それは楽しみだ」
「ここに作り方が書いてある」
芹が、説明書をなくしたから、といって細かく説明を書いてくれた。その紙を手渡すと、ふむふむと興味深げに読み始める。

読みながら、こなぽんを片手にそうしは二階に上がっていった。

 大丈夫かな……。

そうしが蒸しておいてくれた芋を齧りながら天井を見る。何となく心配になる。

一騎は牛乳で食べかけの芋を流し込むと、急いで二階に上がっていった。



「一騎、いい具合に出来そうだぞ」
そうしは小さなフライパンに小さなドーナツを入れようとしているところだった。
じゅっと音がして、ぶくぶくと泡が立つ。

 へえ。

一騎は驚いていた。
玩具とは思えない、精巧なつくりだ。本物といわれても分からないかもしれない。
しかも、ほんのりきつね色に色づいてゆく。

 すごい…これでも玩具なんだ…すごいなあ、日本の昔の玩具って。
そうしの背中の羽はずっと小さく羽ばたいている。よほどに楽しいのだろう。

感心しているうちにも、ドーナツは出来上がっていた。
「一騎、出来たぞ」
「へえ…すごいねえ」
一騎は素直に感心していた。
「美味しそうだ、一騎、食べていいぞ」
「うん、美味しそうだけど食べられないからね」
「何故だ? 芋でお腹いっぱいになってしまったのか?」
「え? いや、そうじゃなくて」
そうしの不思議そうな顔を見ているうちに、一騎ははっとした。

 まさかと思うけど……。

どっと背中を冷や汗が伝う。

「そうし…それ、おもちゃだし」
「え?」
「食べられないんだよ」
「……おもちゃなのか?」
「…う…うん…だって…」

そうしの背中の羽がしおしおと垂れて行くさまを見て、一騎は焦った。
「あ、あの、そうし、待っててくれ、すぐ作るから!」
いうなり、すぐさま階段を駆け下りた。


 確かこないだ買ったばかりだったよな…ホットケーキの粉。まだたくさんあったはず…。

そうしってば食べたかったのならそう言ってくれれば良かったのに……!

 作ってみたい、というからあのようなものを借りたのだが、気を回しすぎ、また、肝心なところに気が回らない自分に猛烈に腹を立てていた。

作れば食べたいに決まっているのだ。
それなのに。

 今までにも、自分では気付かずにこうして誰かを―――たとえば総士を ――― 落胆させたことは多かったのではないだろうか。
総士はどんな想いでいただろう。気の利かない自分を叱り付けたいことはおそらく数多くあった事だろうと思う。


 ドーナツは作り方は知っていても実際に作った事はなかった。一騎は箱に書かれた作り方を読みながら、慎重に、なおかつ急いで作っていた。

 ごめん…すぐ食わしてやるからな。

背中にたたまれてしまった元気のない翼が思い出され、一騎は焦っていた。


「出来た…」
ようやく出来上がったドーナツを皿に移し、それを手に二階へと駆け上がった。

「そうし!」
「…どうした、何を慌てている」
「…あ…慌ててないよ…そうし…ドーナツ、作ったよ」
「え」
「食べたかったんなら…そう言ってくれよ、そうし」
「あ…ありがとう…」
そうしはぽかんとしてしばらく皿を見つめていたが、やがて手を伸ばし、ドーナツを取った。

「…どう?」
つい、ドーナツを食べるそうしの口元を見てしまう。
何しろ、初めてなだけに自信はなかった。
「美味しいぞ、一騎」
そうしの翼が小さく羽ばたく。それを見て、一騎はほうっと息をついた。
「……良かった…」
「ありがとう、一騎。とても美味しい。本当に美味しいぞ」
「うん…良かった」
本当に良かった。
ドーナツを食べるそうしを見つめつつ、つい笑みもこぼれる。

 慌てて作ったけど。まあ、でもドーナツの元、みたいなものだからかもな。

そんなことを思っていると、そうしがぽつんと、
「お前に食べさせたかったのだ」
と、呟いた。
「……え? 俺に?」
そうしは頷いた。

「前に、カノンに聞いたことがあるのだ。カノンが作ってくれるお菓子はいつも美味しい、料理が上手なのか、何か秘訣があるのか、と」
「……うん」
その両方なのでは、と思いながら頷き、言葉の続きを待つ。
そうしはまたドーナツを一口、齧った。
「カノンは…こう言った。いつも食べてくれる人のことを考えて作るようにしている、と。羽佐間容子からそのように教わったそうだ。
相手が喜んでくれることを思いながら、相手のことを考えながら」
「……」
「だから彼女のお菓子が美味しいのは…おそらく、その想いが伝わるのだろう、と、カノンはそう言っていた」
「………そう…」
「だから僕もそのようにしてみたかったのだ、一騎、お前に食べさせたかった」
「そうし……」
そうしはにこ、と笑うと食べかけのドーナツを目の前まで掲げてみせた。

「これはカノンが持ってきてくれたものに負けないくらい、美味しいぞ、一騎。
きっと僕のことを想って作ってくれたからだろう」
「…あ…ありがと…」
しばし、そうしがドーナツを食べるその姿を見つめていた。


この天使は、なんと多くのことを気づかせてくれるのだろう。

思えば、そうしが聞いたというカノンの言葉は、料理の基本ではないか。
総士のために料理を作るときにも、いつも自分はそうしていたはずだった。
そのようなことも、忙しく流れる日々の中にいつしか置いていってしまったように思える。

料理に限らず、決して忘れてはいけないことのはずなのに。


「な、そうし」
ドーナツを銜えたままそうしは顔を上げた。
「地上で描かれる天使の絵って頭にわっか、乗せてるだろう?」
そうしはこくん、と頷いてドーナツを離した。
「何故かそのように描きたがるな。人間の目には何か見えるのかも知れん」
「うん。それってもしかしたらドーナツかも知れないね」
口がドーナツで塞がっているそうしの羽が忙しくはためく。
抗議したいのか同意なのか、その表情だけではなんとも分からないけれど。
ドーナツを頭に乗せた天使を想像して、一騎は一人で笑っていた。

















 




John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/

2007/03/17