僕を探して(後編)
強くなった風が、梢を鳴らす。
総士は、一騎の震える肩を抱えてその髪を撫でながら、なんと言って欲しかったのだろう、と、考えていた。
「苦しかったわけじゃ…ないよ…」
小声で、言った。
苦しかったわけでは、ない。
ただ、寂しかった。
自分の居場所が、時に分からなくなった。
戻りたいと、あれほど切望した場所は、このようなところだったのだろうか、と思った。
「今日…剣司に会った時に…あの制服が羨ましかった…」
そっと、一騎の背中を抱き締めながら、言った。
「…アルヴィスに戻りたいわけじゃない…戻っても、やれる事もないし…でも…お前と一緒に仕事してる剣司が…羨ましくて」
自分に、やれる事がもうない、ということが、寂しくて。
古い窓が、がたがたと音を立てる。
隙間風が、ごう、と唸りを上げた。
乙姫…乙姫か…?
ふと、そんな気が、した。
いつもなら、そのようなことは思わないのに、何故か、乙姫の思考が流れ込んできたように思った。
…怒っているのか…乙姫…
ぎゅ、と、腕を掴まれて振り返る。
一騎は俯いたまま、腕を強く掴んできていた。
「…駄目なの…?」
「え?」
「子供たちのために…いたんじゃ…駄目…」
嗚咽交じりの声で、良く聞き取れず、総士は一騎を抱え上げた。
「泣くな…良く聞こえない…もう一度…」
「守るのが…島じゃないと駄目なの?」
一騎は、いきなり叫ぶように言った。
「守るのが子供たちじゃ駄目なの? 総士…!」
「……」
「それってお前にしか出来ないじゃん…!」
「…一騎…」
「何か役目がないと駄目か? 子供たちはお前を必要としてる、それじゃ、駄目か?」
くっ、と喉を鳴らし、顔を伏せて泣きじゃくった。
「…そうじゃ…なくて…」
震える髪に手を当ててみる。こんなことが、前にもあった気がする。
あれは、いつだったろう。
「…一騎…お前は…俺が女でなくても…必要としてくれた?」
「当たり前だろう!」
弾かれたように一騎は、涙でくしゃくしゃになった顔を上げた。
「女でなくても…って。だってまさかお前が女になって戻ってくるなんて思ってなかったんだぞ!
それだって一年、待ってたんだ!」
「………」
ああ。そうだ。
いつも、聞こえていた、彼の声。
時間の流れを把握することは出来なかったけれど、一騎の声はいつもいつも、聞こえていた。
自分を、呼ぶ声が。
そして、総士は思い出した。
一騎が、カニを見つけて、それを総士かもしれない、と思い、追いかけた、と語ったことを。
毎日、日に何度となく出掛けていた、と後に史彦からも、聞いた。
再び、風が鳴る。
先ほどよりも強い風が窓を揺らし、庭で、何かを倒した。
…乙姫…何が言いたいんだ…。
わずか、三月ほどしか地上にいられなかった、愛しい妹。
わずか、三月。
何かが、総士の中で動いた。
何だろう。
それは、はるか遠い記憶のように思われる。
一騎の髪を撫で、背中を抱き込もうとした時 ――― 電話が鳴って、一騎は、鼻をこすり、顔はそむけたまま、受話器をとった。
「あ…何…うん…ん…大丈夫…」
声がかすれて、うまく喋れないその様子に、総士は、横から受話器を取った。
「すみません、代わりました」
『ああ…どうしたね。大丈夫か?』
史彦の、のんびりとした声が心地良く耳を打った。
何故か、心が凪いで来る。
「ええ…すみません、大丈夫です」
電話の向こうで、美久の声がした。
「あの、美久は…大丈夫ですか? 悪戯、してません?」
『なに、大丈夫だ。それで今夜はこっち、泊まるから』
「え…でも…祐哉は」
『ああ、祐君もだ。いいだろう?』
「あの、でも、じゃ、オムツ持っていかないと」
何故か、焦っていた。
『オムツも気にすることはない、買えばいいんだし』
「でも…ミルクも」
『気にしなくていい。それよりも…ゆっくり話しなさい。君は君のしたいようにすればいい…。
他の事も、たまには忘れることだ。もう少し、自分の事を考えなさい』
「………」
静かな史彦の言葉が、何故か、重い。
黙っていると、すぐ傍で美久の声がした。
お母ちゃんだよ、と言う、史彦の声がして、続いて、美久の声が受話器から飛び込んできた。
『おかあちゃ、あのね、おおきな、おおきなあかいかにさん! すっごいの! おっきなはさみ、もってて、ゆうちゃん、ないちゃったの!』
「美久…!」
懸命にザリガニの様子を話す美久が、自分の事など気にもしていないような様子に何故か焦り、呼びかけた。
「美久。今夜、泊まるの? 迷惑かけないように…」
『とまるの! あのね、おじちゃんがはなび、みせてくれたの!』
そこまでで、いきなり声は離れてしまった。
美久の、はしゃぐ声が、遠い。
「美久…」
溝口の声に重なって、祐哉の甲高い声、美久の笑い声。
置いていかれた自分を感じて、思わず、電話口で大声で美久を呼んでいた。
『総士君』
聞こえてきた史彦の声に、はっと我に返る。
「あ…すみません…でも」
『うん? どうしたね』
子供たちを、返して欲しい。
そう、叫びそうになって、慌てた。
そして、知った。
求めていたのは、自分の方だった、と。
こんなにも、子供たちを求めている。
必要とされたかったのではなく、自分が、必要としていたのに。
「あの…何でもないです…大丈夫ですか?」
『ああ、心配するな。それより、一騎と良く話し合いなさい。繰り返すが…君のしたいように。そのための協力はするから』
自分のしたいように。
それは、どのようなことだろう?
「…はい…分かりました…」
蚊の泣くような声で答え、そっと受話器を置いた。
「総士、親父、何だって? チビたち、泊まるの?」
すぐ後ろに一騎が来ていて、まだ掠れた声で聞いてきた。小さく頷くと、一騎は、自分と同じように、
「オムツとか、ミルクは?」
と言った。
「買うって…」
「買うったって…着替えはどうすんだよ、暑いのに。
それに、祐哉は離乳食だぞ? 溝口さん、離乳食まで作れるんかな」
その顔を見ていて、思わず、微笑んでいた。
同じ心配をしている。
それが、何故か、嬉しかった。
同じように、子供の心配をしていた。
「お義父さん…良く話し合えって…自分のやりたいようにしろ、って」
「…うん…」
一騎は俯き、膝の上で、拳を作っていた。
「…あの…俺…溝口さんとこ、着替え持って行って来るから…総士…考えてて…」
声が、震えていた。
「…で…帰って来る頃に…その頃までに…結論…出してて…」
「結論だったら…今、出た」
総士は、一騎の顔は見ないようにして言った。顔を見たら、何も言えなくなりそうな、そんな気がした。
立ち上がろうとしていた一騎の腕を掴む。
今は、どこへも行って欲しくなかった。
「お義父さんに…言われたんだ。自分のしたいようにしなさい、って。
でも…自分のしたい事をする、って…良く分からなかった。前はした事がなかったから」
常に、義務が先にあった。
唸りを上げる風の音を聞きながら、乙姫のことを思い出していた。
短い時間を、精一杯生きた、妹。
誰よりも、大切だった。
彼女に与えられた時間はあまりに短く、だからこそ、一瞬一瞬が、彼女にとってはこの上なく、大切だった。
自分は、なにをしていたのだろう。
彼女に与えられたよりも、長い時間を。
消えゆく時に、自分は、何を誓ったろうか。
どれだけ苦しくても、そこにいたい、と。
そう願ったのではなかったのか。
ただ、そこにいること。
それさえも、許されなかった妹は、こんな自分を見て、何を思うだろう。
「…一騎…もう少し…ここにいて…」
一騎の腕を掴んだまま、言った。
子供たちも居ない今、一騎までいなくなったら、本当に、自分は一人になってしまうから。
自分の、やりたい事。
それは、何だったのだろう。
そのようなことを、前は考えたこともなくて、慣れていなかった。
けれども、今、戻ってきて一騎といる、これは、自分の望んだこと、ではなかったろうか。
それは、名前もなく、意味もないことかもしれない。
でも、間違いなく、自分がそうありたい、と、望んだ形ではないだろうか。
まだ、俯いたままの一騎の頬に手をかけ、泣き過ぎて腫れた目蓋に口付ける。
「…ごめん…本当に…悪かった…悪い事をした…」
前から。
ずっと、ずっと、子供の頃から。
おそらく、寂しくて、堪らなかったのだろう。
だから、常に自分に義務を与えられていることを、よしとしたのだろう。
寂しいなんて、考えずにいられたから。
一騎は戸惑ったように瞳を上げ、すぐにまた、俯いた。
その唇が震えている。
自分は、何度、彼を苦しめたことだろう。
「一騎…本当に…」
「もう…いい…総士…」
ぎゅ、と手首が掴まれ、抱き寄せられた。
「総士…苦しいなら…そう言って…でも、俺…お前がまたいなくなるの…やだ…」
再び、声を上げて泣き出した一騎の肩を掴んで、違う、と繰り返した。
そうではないのだ。
やっと、気が付いた。
自分が求めるものは、いつも手に入らないと。
手にしてはいけないのだ、と。
そう、思っていただけだ、ということに、今になって、やっと気が付いた。
失うことが、怖くて。
一生求めても、手には入らないであろうそれらを、ただ、求め続けるために、自分は、いる。
必要とすること、それが、自分が望んだことだったのだろう。
どんなに小さい存在であっても、かまわない。
役に立たない、一住人で、いい。
子供たちとともに過ごし、一騎が横にいる。
それだけを、求めていた。
気付かなかった。
その願いは、あまりに、小さくて。
総士は、そっと、一騎の頬に口付け、次に、唇を重ねた。
頬に手を当てて、むさぼるように口付けた。
この胸のうちが、伝わるように。
言葉はなくとも、心の底から、自分のすべてをかけて愛していることが、伝わるように。
それもまた、いつかは失われるのだろう。
その時、自分は恐怖と絶望で泣き叫ぶだろう。
耐えられる自信は、まだ、なかった。
だからせめて。
今のうちに、すべてを、彼に伝えておきたかった。
この瞬間が、確かであるうちに。
END
John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/
2005/07/16