僕を探して(中編)
庭に植えられた朝顔の葉が風に揺れる。
木立のこすれる音以外は、何も聞こえない。
総士は窓辺に腰を下ろし、庭を眺めていた。
すぐ隣で、一騎は麦茶を飲んでいる。
「あいつらがいないと静かだな」
呟き、麦茶を飲んだ。
「静か過ぎて気が抜ける」
静かな声を聞きながら、一騎もきっと、この朝顔を見ているんだろうな、と思う。
庭の、生垣に沿ってずらりと植えられた、朝顔。
こうして、二人きりになるのは、随分と久しぶりだ。
その慣れない空気に戸惑い、すぐ横の、自分の麦茶のコップに手を出せないでいる。
体が動かなかった。
のんびりした声とは裏腹に、一騎がまだ怒っているのは分かっていたから。
「それで、総士」
黙っていると、一騎の方から切り出してきた。
「今日…子供たちだけ連れて出たのは…なんで?」
「…特に…」
「理由もなく? そうじゃないだろう?」
「…一人で…考えたかったんだ…いろいろ…」
そう、いろいろなことを。
庭の、朝顔の根元に、美久が書いた立て札がある。
何が書いてあるのかは分からないけれど、自分ではあさがお、と書いたつもりだったのだろう。
自分の想いは、いつも、自分にしか、分からないものかもしれない。
「俺は…何のためにここに戻ってきたんだろう、って思って…子供を生むためにだけ…戻ってきたのかと思ったら…なんだか…」
一騎は、ちら、と瞳を向けただけで、すぐに庭に向き直った。
「…もう俺に出来ることはないんだ。
島を守れた…それが分かった時に…終わってたんだろうと思う」
そう、口にしたとたんに、寂しさがこみ上げてきた。
そう、もう、自分に出来ることは、何もない。
今は、一人の住人に過ぎない。
そして、警備の人間を煩わせる、厄介者、かも知れない。
風に揺れる葉を見つめる。
朝顔の葉は、震えるように揺れていた。
「自分の存在って…なんだろう、って…子供たちの…母親、って言うだけで…」
買い物に出ても、周囲の目が気になる。
このごくつぶし、と言われている気がする。
「…もう、何の役にも立てないのに」
誰も、もう自分など、必要としていないかもしれないのに。
「なんで…戻ってきたんだろう、って…」
「…乙姫ちゃんの…声を聞いたんだろう? 言ってたじゃないか」
「ああ…だから…それだけのために…戻ってきたのかな…」
一騎は、片膝を立て、その上に手を乗せて指先を揺らしていた。
何かのリズムを刻むように、軽く、小さく。
「…お前は…自分が守った島で…ここで…幸せになるために…」
一騎は、言葉を切って麦茶のコップを取り、その中を覗き込んだ。
「…そうだな…幸せなんて…人それぞれ、だな…」
小さく、呟く。
再び、沈黙が降りる。
それは、重くて、耐え難かった。
一騎は、まだ、コップの底を覗き込んだままで、動かない。
立てた片膝の上で、指先だけを、軽く動かしていた。
「俺には…お前は必要なんだけど…それじゃあ、駄目か?」
「…子供の…母親として…?」
その言葉が、一騎を傷つけるかもしれない、と言うことは、分かってはいたのだけれど、言わずにはいられなかった。
「お前がお前だから。…それじゃ、駄目か?」
声は、少し小さくなる。
総士は黙って自分の指先に目を落とした。
何を、言って欲しかったのだろう、自分は。
「…でも…前の俺は…もういないよ…
今は…あの子達の母親としてだけ…」
かつての自分は、ここにはもう、いないのだ。
一騎の指先の動きが、次第に遅くなる。
「…俺は…自分は…すごく幸せだった…そう思ってた。で…多分…お前もそうだ、って…信じてた」
指先の動きが、止まった。
「…もしかしたら…違ってた…? 俺と一緒にいて…お前…苦しかった…?」
その言葉に驚いて、一騎の顔を見る。
動きを止めていた指が、きゅ、と握られる。
小さく、震えていた。
「…冷えてきた…閉めよう」
小さな、掠れた声で言うと、一騎は窓を閉め、奥の部屋に入っていった。
総士も慌てて後を追う。
ベビーベッドの置いてある部屋で、一騎は向こうを向いて座っていた。
俯いて、肩を震わせている。
「一騎…」
その肩は、いつもより、小さく見えた。
思わず、後ろからそっと抱き締める。
「一騎…」
「…もしかして…戻りたくなかった?
戻ってきても苦しかった?」
掠れた声で、搾り出すように言う。
「でも、それならなんで…戻るって約束…したの…」
「…一騎…」
「………」
「…そう…だよな…」
一騎は小さく呟いて、部屋の中を見た。
子供たちのもので溢れている、小さな、部屋。
総士の負担が、少しでも軽くなるよう、頑張ったつもりだった。
精一杯、やってきたつもり、だった。
でも、もし、それが、総士の望む方向と違っていたら。
もし、女の体であっても、子供が生まれなければ、もっと彼は気楽に生きられたかもしれない。
けれども、すでに子供たちは、居るのだ。
いつしか、膝の上で、拳を握っていた。
総士の手のひらが、肩を掴む。
その柔らかさ、暖かさに、耐えられなかった。
「…俺、お前がすごく好きだし…子供たちが生まれた時は本当に…すごく嬉しかったんだよ…でも…」
もしかしたら、総士にとっては負担でしか、なかったのかもしれない。
選択をさせなかったのは、自分だ。
あの時、彼の立場で、産む以外にどんな方法があったろう。
そして、そうさせたのは、間違いなく自分なのだ。
目の前に見えるベビーベッドが歪んだ。
美久。ごめん。
祐哉。ごめん。
堪えきれない涙が溢れた。
泣いては駄目だ、と思っても、止まらなかった。
「一騎…」
「……本当に、お前に幸せになってもらいたかったし…そう、出来てる、って思ってたけど…でも」
胸が潰れそうで、喉が詰まる。
「お前もそう思ってるなんて…誰も言ってないよな…」
初めは、傷を負わせた償いだったろう。
そのために、何でもするつもりだった。
そうしているうちに、気持ちはすりかわって行き、一騎は、それを是とした。
おそらくは、それよりもずっと前から好きだったのだろう。
総士に負わせた傷は、同時に、自らに負わせたものでもあった。
総士に、自らを括るために。
けれども、それも、彼にとっては、重荷でしか、なかったのかもしれない。
「一騎、違う…違うよ、そうじゃなくて…」
総士の腕が、肩にかかる。
引き寄せられ、細い指が、髪の中に滑り込んでくる。
「どう言っていいか分からない…自分の…存在意義が分からなくなったんだ…。
前は島を守ってた…でも、今の俺にはもう…何も出来ないから…」
その声は僅かな振動となって、耳に響く。
「…約束したのは本当にそう思ってたから…戻りたかったから…」
「……」
今は、消えたいのか。
そう言おうとして、思い留まった。
間違っても、もう、消えて欲しくない。
「総士…頼む…もう俺はいいから…」
そう言ってしまってから、どっと涙が溢れた。
本心では、ないのに。
胸が締め付けられて、言葉が出なかった。
何を言っていいのか、混乱した頭では考えもつかなかった。
さまざまなことが、頭を駆け巡る。
冷たい風の中、海岸線を、総士を待ち続けて歩き回った日のこと。
雪を踏みしめながら、総士を抱いて家まで連れ帰った日のこと。
美久が、そして、祐哉が生まれた時のこと。
それでも、自分の気持ちだけで、総士がそれを望んだわけでは、ないのかもしれない。
もう、自分はいいから。
だから、子供たちだけでも、守ってやって欲しかった。
その言葉が、どうしても出てこなかった。
あまりにも、辛すぎて。
口にするには、勇気が要りすぎて。
John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/
2005/06/23
で、また続いてしまった…