消えない罪
蝉の声がうるさい。
それでなくても憂鬱なのに、蝉の大合唱に頭痛がしてくる。
もちろん、頭痛は蝉のせいではない。後ろについてくる団体にあった。
後ろには、剣司をはじめ、カノンや遠見真矢、下級生の堂馬広登たちまでが付いてきていた。
それもこれも、昼間、そうしが教室に姿を現したことに端を発している。
みな、口々に会わせろ、と騒ぎ、致し方なく、そうしを紹介せねばならなくなってしまったのだ。
気分は、最悪だった。
「おかえり。早かったな」
片手にうちわを持ったままのそうしがふわふわとやってきた。
「お客人か? 珍しいな」
「…お前…弁当届けてくれたのはいいけど…飛んでくるから…」
「…あ? しかし、飛ばなければあの場所まではいけないぞ?」
「…普通は階段、上がるだろ…」
何だか、どっと疲れてきた。
「まあ…いいや…あの、入れよ」
「お邪魔…します…」
おずおずと皆、目線はそうしに釘付けにしたまま、入ってくる。そのために剣司は敷居に躓いて派手に転んだ。
「本当に…天使…なのですか」
呆然と呟くように問いかけたカノンに、そうしは大きく頷いて見せた。
「一応、人間たちはそう呼ぶ。麦茶を作っておいた。
飲め」
「天使…ああ…神が使いを下されたのですか…いや、罪深い私たちを…」
「お前の罪なんか知らないぞ、僕は」
泣かんばかりの、カノンの言葉をそうしは遮り、麦茶のコップを並べた。
「…どうも人間界ではいろいろと誤解があるようだな。
お前…名はなんという?」
「カノンと申します…」
「カノンか。…はっきり言って神もお前の罪なんか知らないと思うぞ? それよりも暑かっただろう、麦茶を飲んで頭を冷やしたらどうだ」
いつもながらの、この上なく偉そうなそうしの口調にくらくらする。
一騎は額を押さえ、
「ともかく…麦茶、飲みなよ」
いや、ここで発すべきはこんな言葉じゃないはずだ。
とは思うのだが、他に言葉が出てこない。
「ねえ、天使なら」
ひときわ明るい声を上げたのは遠見真矢だった。
「キューピッドって言うのと同じ? あの、恋の矢を射るの」
「ふむ。キューピッドというのか」
そうしははたり、とうちわを動かした。
「それは生まれてすぐに皆、やることだ」
「あ。キューピッドが赤ん坊の姿なのはそのせい?」
堂馬が菓子をぼりぼりと頬張りながら身を乗り出す。
そうしは頷いた。
「そうだ。生まれてすぐの役目が恋の矢を射ることだが。…何しろ赤ん坊のやることだからな。失敗も多い」
「そっか、それで三角関係とか失恋とか出来ちゃうんだ!」
剣司の声に、そうしは剣司を見、頷いた。
「そういうことになるな。それが人間にはたいそう興味のあることらしい。よく矢を射てみてくれ、と言われる」
「出来ないの?」
「終わった役目を何故、もう一度しなくてはいけないのだ」
「…そう…」
いかにも、そうしの言いそうなことでは、あった。
一騎はふと、隣のカノンを振り返った。
カノンは先ほどからずっと、十字架を手にそうしを見つめている。目にうっすら浮かんでいる涙に、居た堪れなくなってしまった。
「な、そうし…あの、カノンの話…聞いてあげたら…」
「うん?」
そうしは麦茶の中の氷を噛み砕きながら振り返った。
「………」
ぼりぼりと勢い良く氷を噛み砕く天使。
一騎は額を抑えつつ、カノンを見た。そんな様子のそうしを見ても、それでもカノンにとっては天使、なのだろう。
「カノン、と言ったな。お前のいう罪のことだが」
「……」
カノンは涙ぐみ、俯いた。
そうしは変らずにうちわを片手に、さらにひとつ、氷を口に運ぶ。
「良く言われることなのだ。ほとんどの者が懺悔だのなんだのというが、それを聞くのは僕たちの役目ではない」
「…そう…なのか…」
掠れた声で悲しそうに呟くカノンの横に、そうしははたはたと飛んでゆき、腰を下ろす。カノンはそれこそ、飛び上がるようにして座りなおした。
そうしは僅かに笑った。
「一騎から聞いてないか? 僕はまだ位が低い。仮に力があったとしてもお前を救う事など、できないが」
言葉を切り、翼をはたり、と動かす。カノンはまるでその翼に頭を打たれたかのように畳の上に顔を伏せた。
「…カノン。罪というのは…時代によって場所によって変るものだ」
「しかし」
カノンは顔を上げた。
「私は…今まで多くの人を殺めてきた…」
「しかし、それでなければお前は生きられなかった、そうだろう? カノン。
…人を殺めることがいいというわけではない。罪には違いない。しかし、それを裁くことが出来るのは…僕ではない」
そういうと、そうしはにこ、と笑い、翼を大きく動かした。柔らかな風が皆の周りを巡る。
そうしは手の平をカノンの頭上にかざしたまま、言った。
「…本当の罪は…おそらく、それを罪と思わないことかもしれない…カノン。
罪を罪と思わず、あるいは、もうないものと忘れ去ることかもしれない。そして裁きは…いつか、人生の終わりを迎える時にしか、分からないものかもしれない。
どうかお前のもとにもいつか仲間が降りてくるように。そして、お前の心が安らぎを取り戻すように」
「…そ…」
泣き出し、言葉を詰まらせるカノンの背を、真矢が撫でていた。
「…そうし君…ありがとう…」
「いや、僕は何もしていないぞ。それよりも…そうだな、カノン、氷も食べるか? お前は少し頭を冷やす必要がありそうだ」
「…そうし…」
一騎はまた、額を抑えた。
そんな物言いをされたら怒るに違いない、と思っていたカノンが、泣き笑いに顔を上げた。
「…そうだな…感謝する、そうし…私は少し…落ち着いた方がいいな」
「うむ。さあ、飲め」
差し出された麦茶のグラスを素直に、嬉しそうに受け取るカノンの、穏やかな表情に、一騎もいくらか救われた気がした。
確かに、カノンの罪は誰かに裁けるものでもなく、また、消えるものでもない。
それは、皆同じだった。
誰もが、罪を背負い、引き摺って生きていかねばならないのだ。
時にその重さに耐え切れなくなりながらも、それでも歩いていかねばならない。
前へ。
前へ向って、と。
消えない罪を背負って。
総士。
永遠に消えない罪を見つめて、生きていかねばならないのだろう。
それが、おそらくは裁きと言うものなのだろう。
隣に座ったそうしが、小さく翼を動かしながらこちらを見つめてくる。
そして、小さく頷いた。
まるで、一騎の胸のうちを読んだかのように。
夏の一日は、蝉の声の中に沈んでいった。
John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/
2006/08/13