傷
部屋の戸を開けるなり、目に飛び込んできた奇妙な光景に、思わず一騎は立ち止まってしまった。
そうしがこちらに背中を向けている。
緩やかに広がった翼はわずかに震えるように動き、そしてそうしは座ったままの姿勢で棚に向っていた。
「…何やってんの?」
振り返ったそうしは嬉しそうに微笑んでいた。
「うむ。ドーナツを見ていた」
「ドーナツ…」
その棚には、父が作った置物のドーナツがある。皿に盛り付けたかのように作られた、父が作ったとは思えないほどの傑作だ。
しかし。
「…見てたの?」
「うむ。これを見て食べた気分になっていた」
「…………」
絶句するしかなかった。
「食べたいの? そう言ってくれればいいのに」
何だかいじましくなって思わず愚痴っぽく言ってしまった。そうしは意外そうに目を丸くした。
「どうしたのだ? 食べた時のことを想像して楽しんでいるのだが?」
「いや、あの」
そうしは構わず、再び棚に向き直り、ドーナツを見つめた。
「これを見ていると食べたときの事を思い出して楽しくなるのだ。美味しかったぞ、カノンが持ってきてくれたドーナツは」
「うん…そうだね…」
にこにこと笑いながらドーナツを眺めているそうしの横顔を見、まさか涎をたらしたりしないよな、などと余計な心配までしてしまう。
そして、その嬉しそうな横顔に、総士がこのように笑ったのを見たことがあったろうか、とふと思った。
総士の笑顔を、最後に見たのはいつだったろう。
「どうした、一騎」
そういって振り返った顔は、今さらの事ながら総士にそっくりだった。
「ん…なんでもないよ。ドーナツ、買って来るな」
商店街の小さな駄菓子屋では一袋百円のドーナツが売られていた。
もっと美味しそうなやつ…。
一騎は方々探し回り、奮発して少々高めのドーナツを買った。高い、といっても一騎の小遣いでは、たかが知れているし、カノンの手作りのものとは比べられないとは思うものの。
置物のドーナツを眺めてにこにことしていたそうしに、ドーナツを食べさせたかった。
ふと、総士はドーナツを食べたかな、と思う。
記憶を漁ってみても、菓子を食べる光景、というのは
余り目にしなかったように思う。
きり、と胸が痛む。
どうしても、そうしは顔がそっくりなこともあって総士を思い出させる。
むろん、総士を忘れたいわけではない。それでも、そこには必ず辛い思い出の方が多く付いて回る。
苦しいことの方が、多く思い出される。
忘れたいわけじゃない。
でも、時に逃げたくなる。
家に戻ると、そうしはまだ棚の前にいた。
相変わらずにこにこして父の作ったドーナツの置物を眺めている。
父も、ここまで喜んでもらえたら本望だろう、と思う。
「そうし。ドーナツ、買って来たよ」
「おお、ありがとう!」
嬉しそうに翼をぱたぱたと羽ばたかせてやってくる。
温めた牛乳を飲みながらドーナツにかぶりつく姿を見ながら、一騎は総士を重ねて見ていた。
総士も、もしドーナツを食べる機会があったなら。
このような笑顔を見せたのだろうか。
「なあ、そうし」
「なんだ」
「お前のその傷…それはいつ出来たの?」
一騎は前から思っていたことを思い切って聞いてみた。
以前から不思議だったのだ。顔が似ているのはあり得るとしても、何故傷まで。
そうしは齧りかけのドーナツを手にしたまま、
「お前に会ったその時にだ」
と答えた。
「え?」
「その前にはなかった」
「……どういうこと?」
「つまり」
そうしは皿にドーナツを置いて、手をふきんで拭った。
「お前には信じられないかもしれないが、僕たちは本来、お前たちのような顔は持っていないものなのだ。
お前が思い描いた人間の顔をそっくり映す」
「……え……」
とっさには意味が飲み込めなかった。
「だからつまり…会う人間がいつも頭に思い描いている人間の顔を僕たちは映す。もちろん、まったく顔がないわけではないぞ。しかし、見る人間によって違って見えることがある。その時代によっても」
「でも…カノンや遠見にもお前は総士そっくりに見えるんだろ?」
そうしは頷いた。
「それはそうだ。僕はここでお前の守護をしている。お前の周りにいる人間にはお前が見ているのと同じように見える…だが、もしお前の傍を離れて違う時代へ行き、違う人間の守護をしたらその時はまた変るだろうな」
「……じゃ…その傷も」
「そうだ。この傷はお前にとって…お前の待ち人を思い出す上でなくてはならないものだ。だから僕にも現れた」
一騎は絶句した。
傷。
自分にとって、もっとも忌まわしい記憶。
確かに、今では傷が付く前の総士の顔を思い出すことの方が少ない。
記憶の中の彼の顔には、いつも一條の傷があった。
「この傷は」
そうしは言った。
「お前の罪だ。お前は常にこの傷を見ることによって、その罪を思い出すことで行動してきた。
…お前の待ち人はこの傷ゆえに人になれた、と言っていたな。ならばお前もまた、この傷ゆえに生まれた。
今のお前が」
「……」
「お前は罪を忘れることはない。自らを許すことはないだろう。恐らくは一生。だからこの傷は僕の顔から消えることはないだろう」
「…そうし…」
きりきりと痛んでいた胸が、今は潰されそうになっていた。
過去の、許されることのない罪。
総士の人生を大きく変えてしまったであろう、自分の過ち。
それは、いつになっても消えるどころかますます大きくなってゆく。
どう頑張ったところで償い切れるものではなかった。
また、許されたいとも、思わなかった。
「罪は重いだろう、一騎。背負うに辛いだろう。
…だが、人は誰でも同じだよ、一騎」
にこ、と笑いかけ、再びドーナツを頬張っている。
ミルクを飲み、二つ目のドーナツを手に取りながら言った。
「何も背負っていない人間はいない。生まれたての赤子だけだ。生れ落ちた瞬間から人は様々なものを背負って生きてゆく。そこには貴賎も人種の差もない。
皆、同じだ」
そして、傷をすっとなぞった。
「僕はこの傷を誇りに思っているよ、一騎。
…これはお前の犯した罪の証しで、お前の心の傷でもある。それを、常に忘れまいとしているからこそ、これは僕の顔にも出たのだろう」
そして、と、傷を再び撫でながら続けた。
「この傷が二人だけでなく、すべてを変えた。
考えてみろ、もし何も起こっていなかったら今のお前は存在せず、そしてこの島は…どうなっていただろうな?」
「……」
確かに、言われてみればそうだ。
「もちろん、だから許されるとは言っていない。何よりも、それはお前が一番良く知っているだろう。
…僕のこの傷が…もし、消えるとしたらそれはお前が待ち人を完全に忘れたときだろう」
一騎は体が震えるのを感じた。
大きく、震えた。
「…俺が…総士を忘れるはずがないだろう…」
「ああ、だから傷も消えないだろう、と言っているのだ。ところでお前はドーナツは食べないのか?
美味しいぞ」
差し出されたドーナツが、涙で歪んで見えた。
この罪は消えることなど、ない。
消したいとも、今は思っていなかった。
解放されたいとも思わない。
罪は、忘れることこそが罪なのだ、と、以前、そうしがカノンに言った言葉を思い出していた。
少し甘すぎるドーナツを食べながら、総士が帰ってきたら、まず菓子を食べさせよう、と思っていた。
子供の頃、良くそうしていたように。
もはや当時の思い出の中でも総士の顔ははっきりしなくて、傷のある顔しか思い出せないけれど。
「一騎、泣きながら食べても美味しくないだろう。
美味しいものを食べる時は笑顔になるものだぞ?」
「…ん…っ…」
頷きながらも、涙は止まらなかった。
John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/
2007/01/09