天使の翼・2
一騎はお茶を入れながらそっと目の前のそうしの顔を伺った。
鳩が銜えてきた葉っぱは、端の方がしなびて色が変わっている。それでもそうしは頑固にそれを額に貼っていた。
大きな葉を絆創膏で額に貼っている天使、というのはそれだけでも笑える。が、一騎は笑う気にはなれなかった。
確かに、効果はあるのかもしれない。そうしの熱もすっかり下がり、こうして居間に下りてきてテレビを見るくらいには回復していた。
ただ、飛ぶことは出来ないらしい。階段を下りるのもうまく行かないらしく、一騎は思わず階段の途中でそうしを抱き上げていた。
「何をする」
「何もしないよ、この方が早く降りられるだろう?」
「ああ。そうか。…確かに楽だな」
少しは恥ずかしがるのかと思ったが。
さすがはそうしだった。
「うむ、この方が楽だ」
そういって当たり前のようにふんぞり返っている。
その時以来、毎回、階段の上がり降りには一騎が抱いていくことになってしまった。
自分にはお茶を入れ、そうしには温めた牛乳を入れてやってテレビのニュースを見ていると玄関がノックされ、続いて、カノンの声がした。
作業場にいた父が出たのだろう、一騎が出ていく間もなく、カノンが入ってきた。後に剣司もいる。
小さくなって上目でこちらを見ていた。
「あ、いらっしゃい…どうしたんだ?」
「いや、あの」
カノンは後を見、剣司が小さく頷いた。
「あの、そうしの具合、どうかな、って……」
「ああ…お見舞いに来てくれたの…ありがと、元気だよ。そうし、お見舞いに来てくれたんだって」
そうしはふむ、と頷いた。
「そうか。見舞いというのはどこでもある風習なのだな。大丈夫だ、良くなっている」
カノンは心配そうに眉をひそめたまま、そうしの横に腰を下ろした。
「…葉っぱがしなびているが……新しいものを取ってこようか?」
「いや、いい」
そうしは首を振った。
「これがいいのだ。この葉っぱが完全にしなびてしまった時に新しい羽が生えそろう」
一騎はそうなのか、と思わず声にしてしまっていた。
「なんでしなびてるの、貼ってるかな、って思ってた。そういうことか」
カノンがきっ、と睨んでくる。一騎は思わず仰け反った。
「一騎…貴様一緒に住んでいながら、聞きもしなかったのか。心配だったなら聞くものだろう」
「あ……ん…うん……」
必要になればそうしの方から言い出すだろう、と思っていたので聞かなかった、とは言えなかった。
新しい葉が必要になれば、それを黙っているようなそうしではないのだが。
「や、あの……気がつかなくて…」
「まあいい。それで」
カノンは持っていた包みを出した。
「今日はその…お見舞いとお詫びを……」
剣司ががばっとそうしの横に手を付いた。
「ごめんな。ほんと、ごめんなさい!」
そうしはきょと、と目を丸くした。そしてすぐに微笑む。
「構わん。それより、咲良はどうだ?」
「ああ、それが」
カノンが嬉しそうににこにこと一騎を見、そうしを見た。
「良くなっている、と思う。昨日は笑ってくれた」
「え」
剣司はぐすぐすと腕で顔を覆って半べそをかいていた。
「ありがとな…今まで…そんな…笑ったことなんかなかったのに…羽を持たせて良くなるよって言ったら」
「少しだが笑ったのだ」
「…で…お前にお礼、したくて……でも、わかんなくてカノンに」
「いや、私からもぜひお礼をしたかった。だからこれは二人からだと思って欲しい」
そうしははたり、と羽を動かした。
「そうか……お前は優しいな、カノン」
静かに微笑んでカノンを見る。カノンは真っ赤になって俯いた。
「いや…っ…あの、そんなこともない、私も嬉しかったから。それだけだ」
俯いて口早にいうカノンの横顔は、いつになく女らしい気がして、一騎は思わず瞬いていた。
そうしの前では、その信仰のせいか、カノンは今まで見せた事のない表情を見せているように思う。
「それでこれは何だ?」
そうしは羽をはたはたと動かしながら目の前の箱を見ている。早く開けたくてうずうずしているようだった。
「お菓子だ。…一騎、キッチンを借りていいか? 紅茶を入れたい」
「あ、俺も手伝うよ」
剣司も立ち上がった。
「一騎の家の台所だったら俺の方が詳しいし」
「では僕はお皿を出してこよう」
そうしはうきうきとした風情で――― 翼を小刻みに動かしている。
こういう時は自分から動くんだな。
少し可笑しくなって一騎はくす、と笑った。
嬉しそうに皿を出しているそうしの後姿を追いながら、咲良の回復を素直に喜んでいない自分を見つけて、一騎はうろたえた。
咲良が良くなっているのに、何故総士は戻ってこないのだろう。
そんな思いが、どうしても頭をもたげてくる。
けれど、それはつまり、自分のもとにそうしが来たのに、何故咲良のところに来てはくれないんだといった剣司と同じなのだろう、と思う。
剣司も焦っていたのだ。自分もそれを知っていたから、剣司を責められないでいたのだ。
そして今、咲良が良くなったという話を聞いて、どうしても羨望の思いは抑えきれずにいる。
いい。
いつかきっと、帰って来る、って約束したんだから。
それは、あるいは諦めと呼ばれるものかもしれない力で、一騎は湧き上がる想いを捻じ伏せ、しまいこんだ。
カノンが持ってきたのは、そうしが大好きだといったドライフルーツがたっぷり練りこまれたパウンドケーキとドーナツだった。
そうしはドーナツを見たのは初めてだったらしい。
「これはなんだ、この穴は」
大きな眼を見開いて真剣に言っている。
一騎はカノンを見た。カノンもまた、困惑したように瞬きを繰り返す。
「えっと…なんというか…そういうお菓子なんだ、そうし」
「こうして穴を開けるのか? この真ん中の部分はどこに行ったのだ?」
「いや、あの、どこにもいってはいないが……」
「ではあったのか? 一騎、お前が先に食べたのか?」
「まさか!」
一騎は慌てた。良く分からないがとんでもない濡れ衣を着せられようとしているらしい。
「今カノンが言ったろ? そういうお菓子なんだ。
第一、真ん中だけこんなふうに綺麗に食べるなんて不可能だ」
そうしは腑に落ちない、と言った様子でしばらくドーナツを眺め、やがて、そうか、と声を上げた。
「これはろくろで焼くのだな?」
「…………」
どう答えよう。
一騎は困惑し、カノンを見た。カノンはさらに困惑している様子で剣司を見る。
剣司は紅茶をすすりながら、
「そうだよ、ろくろで生地を丸くして焼くんだ。これを積み上げると花瓶みたいな形のお菓子になる」
「そうだったのか!」
「剣司、貴様何を…!」
カノンが剣司の首を捕まえるよりも早く、そうしははたはたと翼を動かし――― でも、飛べないのでいくらか浮くだけだったが――― 作業場へと降りていった。
「史彦、見ろ、これを。ドーナツというそうだ。
ろくろで焼けるそうだ」
「………」
父はぽかん、と口をあけてそうしとその手にあるドーナツを見ている。
一騎は眩暈がして額を抑えた。
「剣司! ろくでもない冗談を!」
「だって嘘とも言えないだろ? もともと陶器ってああいうのを積み上げて作ったって言うし。理屈としては丸くすればいいんだから出来なくはないと思うよ?」
「…よし。では今度、貴様にろくろで作ったドーナツを食わせてやる」
カノンの剣呑な声とは対照的な、のんびりした父の声がした。
「なるほど、ドーナツか。作れるかも知れんな。
だがここで私が作ったものは食べられないぞ。
それにそこまで綺麗な円にならないだろうが」
答える父の声は、何となく楽しそうだ。
「食べられないのか」
「ああ、ここで食べ物を扱うわけにはいかんだろう、だが例えば…そうだな、置物のような。
ドーナツの形の置物だな。そのようなものなら作れるかもしれん」
「本当か?」
そうしの声は本当に嬉しそうだった。
「史彦がドーナツを作ってくれるそうだ。残念ながら食べられないが」
食べられない、置物としてのドーナツに何の意味があるのだろう、第一、あの父が丸いものを丸く作れるとは思えない、などということはこの際、黙っていることにした。
その夜から史彦はさっそくドーナツを作り始めていた。
見本として、小皿に置いたドーナツにラップをかけたものを横において、それを見ながら何度も作り直している。
「父さん…そこまでしなくてもいいのに」
小さく呟いた声は史彦の耳に届いたらしい。
父の笑う声がした。
「なに、構わん。私も楽しいからな。
こんなものを作れるとは。考えたこともなかった」
土の塊を撫でる父の指先が、いつもよりも丁寧に感じられるのは気のせいだろうか。
「一騎」
史彦はろくろから顔を上げることなく言った。
「そうし君は…確かに天使かも知れんな」
小声で言うとあとは黙々とろくろを回し続ける。
一騎はしばらくその場に立ち尽くしていた。
けれども、それ以上の言葉はなく、父もまた、振り返ることもない。
確かに。
一騎は牛乳を温め、カップに入れて二階に持って上がった。
そこでは、そうしが嬉しそうにまだ残っているドーナツを食べている。
「ほら、牛乳」
「お、ありがとう。一騎も食べろ。美味しいぞ」
「うん。でも昼間、いっぱい食べたから」
言いながら、そうしの額の葉っぱを見る。それはもう、だいぶしおれている。新しい羽がもう生えてくるのだろう。
ドーナツを食べるそうしを見ながら、父の言葉を思い出していた。
天使、か。
彼がいなかったら、父があのように笑うことはあっただろうか。
何よりも、この自分が。
日々をどのように過ごしていただろう。それは、想像も付かなかった。
そっと、そうしの背中の羽を撫でる。
ドーナツを齧ったまま振り返ったそうしを見て、一騎は思わず笑っていた。
総士を待ち続けて過ごす日々の、何と重く、苦しいことか。
それを、少しでも彼は埋めてくれるのだろうと思う。
自分だけが笑っていていいのだろうか、という思いは、消えることはない。
その度に、そうしに言われたことを思い出す。
「な、そうし」
「うん? どうした。ドーナツはもうあと一つだぞ」
「うん、いいよ、食べても。……あの…俺がこうして過ごしていること…総士は…つまり俺が待ってる総士はなんて思うだろうね…」
「喜ばないといって欲しいのか?」
「え……」
そうしは口の周りの細かい砂糖を手の甲で拭った。
「お前は彼を忘れたことはない。それは僕が良く知っている。…それで十分ではないのか?
お前は今でも彼を待っている。僕は……」
ふっと手元のドーナツのかけらに目を落す。
「その時間が少しでも短ければいいと思っている」
「……そ…か…」
父の言うとおりだ、と一騎は思った。
そうしは――― この翼の生えた子供は、時間を埋めてくれる。
総士を待ち続けて過ごす、永遠にも思える長い時を、優しさで埋めてくれる天使に違いなかった。
彼がいなければ、時間の重さに耐えかねて自分は狂っていたかもしれない。
「そうし」
「なんだ。さっきからどうした」
思わず噴出していた。
「ごめん…なんでもないよ。父さんが下でドーナツ、作ってるよ。出来上がりが楽しみだな」
そうしはにっこりと笑った。
「そうか、作ってくれているのか。楽しみだ。どのような色がつくのだろうな。美味しそうなものが出来たらいいな」
それは望めないだろう、という言葉は、今は言わないことにした。
もしかしたら、父はこの小さな天使のために、これまでにないほどの傑作を作るかも知れないのだから。
John di ghisinsei http://ghisinsei.sakura.ne.jp/
2006/12/22