天使の翼
目の前に広げられた、様々な形のクッキーに、そうしの翼は小刻みに羽ばたき続け、その瞳は子供のように煌いていた。
「これは全部お前が作ったのか、カノン」
「ああ、そうだ」
カノンははにかむように少し俯き加減で言った。
「その…母さんと作っていたのだが…ぜひ、その」
「袖の下って奴か?」
横にいた剣司が茶々を入れる。カノンはきっ、と横目で剣司を睨み、剣司は首をすくめた。
剣司とカノンが連れ立って遊びに来たことにも驚いたが、突然のこのプレゼントにも一騎は面食らっていた。
「咲良の見舞いの帰りなのだ」
カノンは言った。
いくらか、症状は良くなったとはいえ、まだ起き上がることも出来ないでいる咲良のもとに、剣司は毎日のように見舞いに行っている。
「咲良にも持っていったのだが…食べられるかどうか…」
ふっと顔を曇らせるカノンに、一騎も思わず麦茶を入れていた手を止めた。
「…大丈夫だよ、カノン、剣司。きっと今頃食べてるさ」
「ああ。そうだといいのだが」
カノンは気遣うように剣司を見、そして、気持ちを引き立てようとするように、明るい声を上げた。
「そしてこれは…その、そうし、あなたに食べてもらいたくて」
「………」
カノンが、『あなた』と誰かに向っていうのを、初めて聞いたように思う。それだけ、カノンにとってはそうしは特別な存在なのだろう。
当のそうしは皆の話など、聞いてなかったらしい。
ひとつひとつ、クッキーを眺め、頷き、首をかしげている。
そして、
「この家ではこのような菓子は出ないな」
と、一騎に向って言った。
「…ごめんな。うちじゃ、買ったもんばっかりだからな」
「いや…うちでもいつも作っているわけではない。買ったものの方が多いぞ」
「そうなのか。それにしても綺麗だな。食べてもいいのか?」
「どうぞ」
にっこりと微笑むカノンを見て、一騎はまたも驚いて口をあんぐりとあけてしまった。
見れば、剣司も同じように口をあけてカノンを見ている。
思えば、このように優しく微笑むカノンを見るのは初めてかもしれなかった。
「…カノン…お前…今日は別人…」
ボソッと呟くように言う剣司に、カノンは、軽く
「そうか?」
と返した。
「うむ。もしかしたら別人…かもしれない…なぜか…その、そうしの前だと…気持ちがこう、和らぐというか」
「気のせいだろう」
そうしがこれまた、実にあっさりと言ってのける。
ふと、そのようなところも総士に似てるな、と思った。
そのそうしはといえば、星の形をしたクッキーをばりばりと齧っている。辺りにはぼろぼろと食べかすが落ちた。
「あ、こら、散らかすなよ…もう…」
「ああ。すまん」
「なあ、ところでさ、なんで一騎のところに来たの? お前。なんで…」
幾分沈んだ声で、畳の目を見つめたままの剣司の言葉に、そうしは口の端にクッキーの欠片をつけたまま、
「何故、咲良のところではないのか、ということか?」
と言った。剣司だけでなく、カノンも驚いたように目を上げた。
「そういうことだろう、違うか?」
クッキーを食べながら、翼が少しずつ広がり、また、それは背中に畳まれていった。
「きっといつか来る。あるいは、もう来たかもしれない。カノン、お前のもとにも」
「え…」
「記憶には残らないのだ、僕たちは。…この赤いものはなんだ、カノン。果物か?」
「あ…ああ。ドライフルーツだが…」
「ほお。うまいものだな。この家では食べたことがない。一騎、今度うちでもこれを作ろう」
「…オーブンがないよ…」
答えながら、そうしの表情を窺う。
話をはぐらかされたのは、これ以上は聞くなということなのか、聞かない方が良いのか、あるいはそうしも良く分かっていないのか。
その辺りはまったく見当も付かなかった。
と、いきなりそうしが悲鳴を上げて飛び上がった。
「そうし?」
「あ…」
飛び上がり、そのまま倒れこんでしまったそうしの後ろで、剣司が尻餅をついたまま、固まっている。
「…剣司…? 何やったんだ?」
「お前、何をした!」
鋭いカノンの怒声に、怯えたように後ずさりながら小さく首を振っている。
一騎はそうしを抱き起こした。
「そうし、大丈夫か? おい、どうした!」
「…羽が…」
蒼く色の変った唇から、僅かに言葉がこぼれる。
「え?」
「違うよ、少しだけ…!」
剣司の叫びに、その手を見る。そこには、白い羽が握られていた。
「…剣司…」
「貴様…羽を…!」
「だ…大丈夫だ」
そうしは一騎の腕にもたれたまま、翼を小さく震わせ、それでも、カノンに、いい、というように手を上げている。
「ご、ごめん!」
泣き出しそうに顔をゆがめて叫ぶ剣司に向って、そうしは手を動かした。何か合図がしたかったらしい。
「馬鹿者…まあ…いい…早く…」
「早くって何が? そうし、大丈夫か?」
一騎はすっかり慌てていた。
こんなことは初めてだ。
前に、翼にはやたらに触るな、と言われたことがあった。
鳥の羽とは違う、と言っていたこともあった。
「ごめん、もしかしたら、って」
剣司はすでに半分、泣いていた。
もしかしたら。
そうしを見る。
時々翼を震わせながら、そうしは頷いた。
「分かっている、一騎。…剣司、お前はそれを咲良のもとに持って行きたかったのだろう?
そうすればあるいは早く良くなるかもしれない、と思ったのだろう? …持っていけ、早く」
「…そうし…」
ぐすっ、と鼻をすすりながら、剣司は何度もそうしにごめん、と繰り返した。
「馬鹿者…一言断ってからやれ…もういいから早く持って行け」
「わ、分かった」
剣司が部屋を出ると、そうしは今度はカノンに、
「すまないが…鳩を呼んできてくれるか」
と言った。
「いや、あの、つまり…」
一騎はそうしを抱き締めたままその体に顔を伏せてしまった。
そのような言い方で通じるはずもないではないか。
この非常時だというのに、そうしはやはり、どこまで行ってもそうしだ。
案の定、カノンは目を大きく見開いてぽかん、としている。
必死に理解しようとしているのだろう。
しかし、カノンがいくら考えたところで理解できるはずのないことではあった。
「えと…つまり…鳩に何か聞きたいんだと思う…そうだろ、そうし」
「ああ…神社で…鳩を見つけたら僕のことを話せば…きっとわかる…」
「あ…ああ、やってみる!」
カノンは勢い良く叫び、部屋を飛び出していった。
一騎はその後姿を目で追い、腕の中のそうしを見た。
そうしの体は、少しずつ熱を持ってくる。
「大丈夫か、そうし…」
「ああ…大丈夫だ…」
その言葉とは裏腹に、不安そうに目を上げて窓の外を見る。
「一騎…稲妻は…見えないか?」
「え? あ、うん…見えないよ…どうして? これも減点なの?」
ふう、と小さくため息をついてだるそうにもたれかかる。一騎はそうしを抱いたまま、座布団を敷いて即席の寝床を作ってそうしを寝かせた。
「…本来は減点だが…どうなのだろうな…」
呟きが終わらないうちに、鳩が窓辺に飛んできた。
首をくるくると動かし、ばたばたと羽ばたく。
「あ。カノン、もう神社まで行ったのかな」
「いや。途中で行き会ったらしいぞ」
すでに、そうしは鳩と会話をしていたらしい。やがて、鳩は飛び立っていった。
「なんか言ってた?」
「いや…馬鹿者といわれた」
「…鳩に?」
そうしは仏頂面で頷いた。
「自分が悪いそうだ…まあ…確かにそうかもしれないが」
どのくらい待ったろう。
カノンが戻ってくるのとほとんど同じ頃に、鳩も戻ってきた。
くちばしに何か銜えている。何か、大きな硬そうな葉っぱだった。
「そうし…行ってきた…途中の道で鳩を見つけて…」
「そうらしいな、鳩から聞いた」
「え」
カノンはまた目を丸くして、鳩とそうしとを、交互に見ている。
「その鳩の持っているものを受け取ってくれ」
「あ…ああ。…この葉っぱだな?」
カノンが近づいても、鳩は逃げなかった。丸い瞳でじっとカノンを見つめている。
おずおずと伸ばされた手の平に葉を一枚落し、飛び立っていった。
「その葉っぱを頭に乗せていれば熱は下がるらしい」
「へえ…」
葉っぱを額に乗せたそうしというのは、ちょっと笑える図だった。場合が場合でなければ。
「それにしてもこれ…何の葉っぱ?」
細長く、少し厚めの、緑の濃い葉だった。
「それは…ユズリハではないか? 母さんから聞いたことがあるぞ…日本のどこかの言い伝えでは新しい年を運んでくるという…」
横になったそうしが、ふふ、と笑った。
「一騎より詳しいではないか。その通りだ、カノン。
言い伝えとは馬鹿にはならないぞ。長い年月、言い伝えられるからには何らかの根拠のあるものが多い」
「…新しい羽が生えるように、っていうこと?」
「まあ…そのようなものだ。すぐに生えると思うが。
…稲妻はならないようだな…減点は免れたらしい」
「…なんで…減点なの?」
そうしは小さく息をついた。
「前に言ったろう、僕たちの羽は人を癒す。だから…やたらに与えてはいけないのだ」
「では…咲良は良くなるのか?」
気負いこんで尋ねるカノンに、そうしは小さく首を振った。
「僕は下級だ。そこまでの力はない。…だが、少しは良くなるだろう…剣司はそれを信じて持っていったのだから」
「あ…」
カノンははっとしたように十字を切った。その瞳に、涙が浮いている。
「信じるものは…救われるのだな…」
「そうだ、カノン。気の持ちよう、ともいうな。
それに」
瞳がこちらに向けられたのを見て、一騎はドキッとした。
「何よりもお前がそれを望んだ…そうだろう、一騎」
「…ん…うん…ごめん…」
思わず、膝の上で拳を握る。
確かに、少しでも良くなるなら、羽の一枚くらい分けてやって欲しい、と思ったのも、事実だった。
その羽の一枚、が彼らにとってどれほどのものかも知らずに。
「ごめんな…ほんとに…ごめん…」
「構わない。…お前も…信じていることがあるだろう」
ふっ、と目を細めて笑う。
そうだ。確かに、信じている。
いつか、総士は必ず帰ってくる、と。
「何も信じない者は僕たちの目には見えない…したがって降りていくこともない。
信じるものにのみ、遣わされるんだ」
「…そうし…」
なんと言っていいのか、分からない。申し訳なくて、でも、嬉しくて、思わずその額を、葉っぱごと撫でていた。
「私からも礼を言う、そうし。お礼にまたクッキーを焼いてくる! ドライフルーツを一杯入れて!」
「本当か、カノン」
そういって嬉しそうに笑うそうしの顔は、すっかりいつもの、無邪気で偉そうな、天使のものに戻っていた。
John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/
2006/08/30