優しい激情に。






 
   クリスマスが過ぎた商店は、一転して正月準備に忙しい。
 約束どおり、父から休日をプレゼントされた総士は、クリスマスの翌日は乙姫と一日過ごしていた。

そして、今日は総士の誕生日のために三人で連れ立って買い物に出てきたのだ。


一騎は一軒のケーキ屋の前で立ち止まった。
「これ、美味しそう!」
横から明るい声がする。乙姫が指差していたのは上にラズベリーがたっぷりと乗った、色合いも可愛いムースだった。
「……ケーキはもういいだろう、乙姫」
後からうんざりとしたような総士の声がする。
一騎は思わず笑ってしまっていた。

 クリスマスに用意されたケーキはそれは大変なものだった。
皆が打ち合わせもせずにてんでに持ってきたものだから、借り切った食堂の、小さな丸いテーブルはケーキで埋め尽くされた。
パーティの間、黙々とケーキを食べ続けていた総士の姿を思い出すとつい、笑いも出ると言うものだ。

持って来てくれたものに気を遣って、あるいは、乙姫のために集まってくれた皆に気を遣って。
おそらく、胃の許す限り食べたのだろう。

 確かにうんざりもするだろう。

「こういうのはなかったよ、総士」
無邪気な声に、思わず一騎は一歩進み出ていた。
「すみません、これ、ください」
「…一騎」
すっと横に来た総士が素早く囁く。
「おい、気を遣わなくていいぞ。あいつのわがままだ」
「いいだろ、これくらい」
ささやか過ぎるほどのものだ、と思った。

 小さなケーキが入った箱を手に、乙姫は嬉しそうに軽やかな足取りでアルヴィスへと向う。
「二人ともお部屋に来てね。一緒に食べよう。
今日は総士のお祝いだし」
「そうだね」
「……」
むっつりとわずかに頷くだけの総士にまたも笑みが漏れる。

 クリスマスのケーキはよほど応えたのだろう。
それでも嫌と言えない総士がどこか愛らしく―――
そして、なんとも形容しがたい感情がわきあがってくることに気がついて、一騎は慌てた。

 何だろう、これは。

胸の奥でちりちりとするもの。
 きっと自分の手料理が余り食べてもらえなかったからだ。
一騎は無理やりそう理由をつけて自らを納得させた。
クリスマスに用意した手料理のほとんどを、総士は余り食べられなかったのだ。ケーキを食べ過ぎたおかげで。
 それは仕方ないよな。
そして、昨日を乙姫と一日過ごしていたことも。
 海岸の岩場に腰を下ろして談笑する総士と乙姫は幸せそうで、とてもそこに入り込むことは出来なかった。
無理もないだろう。総士は小さい頃から何度となく岩戸に行っては乙姫と会っていたというから。
 自分には兄弟がいないから分からなかったけれど、総士にとって乙姫はかけがえのない存在なのだろう。
この世で、二人きりの兄妹なのだ。



 総士にはコーヒー、乙姫にはミルク、自分用には紅茶を入れて小さなテーブルに並べる。
乙姫は嬉しそうにケーキの箱を広げていた。
「これ、食べ終わったらプレゼント持って来るね」
「まだ何かあるのか」
頬杖を付いたまま呟くように言う。それでもその顔はどこか嬉しそうにも見える。
一騎ももちろん、プレゼントは用意していた。
 でも、どうしよう。

それがどのようなものであれ、総士にとっては乙姫からのプレゼントが一番嬉しいだろう。
机の片隅に置いてある、小さな折り紙の鶴がそれを物語っている。

 それは乙姫が出てきて間もない頃だ。
遠見千鶴に折り紙を教わった、といって手の平にいっぱい作品を持ってきたことがあった。
どうしても飛ばない飛行機、ひしゃげた風船や角が整わなかったために形を成していない兜。
それらの中から乙姫は鶴を取り出した。
「総士に上げる」
くちばしの曲がった折り紙の鶴を受け取った総士は、軽く頷いただけだったけれど。
今でも机の隅にちょん、と置いてあるそれが、何よりも総士のその時の想いをあらわしているように思える。


 ケーキを食べながら総士の肩越しにぼんやりと鶴を眺めていた一騎は、呼び声に我に返った。
「どうした、一騎」
「あ…? あ、ごめん」
「ね、一騎、これ食べ終わったらトランプしよう?」
「…トランプ…ババ抜き以外にしてくれる?」
一瞬、きょとんとしてから、ころころと笑い転げる乙姫を見て、総士がため息をつく。
「一騎、無理はするな」
「ううん、無理じゃないよ、なんで」
言いながらも胸が締め付けられるような痛みに襲われる。

 無理はしなくていいのだ。
なのに、どうしてこんな想いをしてまで付き合おうとしているのだろう。

 それは、きっとこうすれば総士が喜ぶのを知っているからだ。

 ぐるぐると空回りを続ける思考に、一騎は疲れ果てていた。





 一騎はそう苦手でもない、と思っていた七ならべで惨敗し、肩で息をついた。
トランプを集め、切りながらそろそろ頃合かな、と思う。このままでは、神経が擦り切れてしまいそうだ。
 総士の肩に頭を凭せ掛けて何事か囁く乙姫を見たとき―――
何かが、音を立ててぷつん、と切れた。

 一騎は何気ない振りをして時計を見た。
「あ、ごめん…俺、もう帰んなくちゃ。父さんにご飯作らないと」
嘘は、このような時はするすると出てくるものだ。
父のための食事ならすでに用意してきたのに。
「帰るのか、一騎」
「あ、私も」
腰を浮かせかけた総士の肩を押さえるようにしながら乙姫が立ち上がった。
「千鶴が心配するからもう帰るね。ごめんね、後片付けもしてない」
「ああ。構わん。遠見先生に迷惑はかけないようにな」
「分かってる。じゃあね、総士」
言葉を挟む間もなかった。
二人のやり取りに取り残され、ぽかんとして立ち尽くしている横を、乙姫がすり抜ける。
通り過ぎざまに、小さく笑いかけてきた。

「一騎、帰るのか。お前、今日は変だな」
扉が閉まったとたんの、総士の言葉に一騎は体を硬くした。
「……え……何が…」
「どこか変だ。どうかしたのか?」
「いや」
総士が近寄ってくる。と、急に腕を引かれた。
「本当になんでもないのか? いくら俺が鈍くてもそのくらいは分かるぞ。何があった」
「…何も…」
ない、と続けようとして、言葉が震えているのに気付いて一騎は慌てた。
乙姫がいなくなった今になって、すべてが奔流のようにあふれ出そうとしている。
「一騎?」
訝しそうな総士の声に、顔を上げることが出来なかった。

 乙姫に嫉妬したなどと、どうして言えるだろう。
そのような醜いものは、認めたくなかった。
自分が、そこまで落ちているなんて、思いたくなかった。

 そう思えば思うほどに、海岸で楽しそうに話していた二人の様子が思い浮かんできて止めようもなくなっていた。

「羨ましかったんだ」
やっとの思いで、何とか当たり障りのない言葉を探し出したとたんに、涙が溢れてきた。
「…ごめん…分かってるのに…お前たち…二人きりで、だから…」
互いが誰よりも大事で、それがたとえ自分よりも上だとしても仕方がない、と分かっているのに。
「一騎」
総士の手が両腕を掴んでくる。
「…乙姫に…妬いたのか…」
静かな声に、思わず総士のシャツを掴んで泣き出していた。
 嫌わないで欲しかった。
嫌われたくなかった。総士が大事に思っている妹だから、自分も大事に思いたかった。
 それらは、多分、嘘だ。
我儘な自分の嘘だ。

 ゆったりと総士の手の平が背中を撫でてくる。
「一騎」
囁くような、低い声だった。
「乙姫は確かに大事な妹だ。だがお前は…妹ではなくて」
「ん…ごめん、分かってるんだ」
「最後まで聞け、一騎」
耳元で聞こえる声は、厳しく、そして優しかった。
「妹とお前は全然違うだろう…一騎。
…赤の他人をここまで想ったのはお前が初めてなんだ、一騎」
最後の方は、ほとんど聞き取れないほどの小声だった。

「乙姫も分かっている。だから…」
言葉を切ると肩を掴んで顔を覗きこんできた。
「で、一騎。乙姫はそのようなわけでプレゼントは後回しにして帰ったわけだが。
お前からはもらえるんだろうな?」
どこか笑いを含んだ声。
「あ…」
一騎は慌てて顔を上げた。
「乙姫ちゃん…それで?」
「お前の様子がおかしいのに気付かない彼女ではない。だから早々に退散したわけだ」
「……え、そんな…」
一騎は慌てた。それで乙姫は。
ケーキを開けるときに、後でプレゼントを持ってくるね、と言っていたのを、今になって思い出した。
「悪い事しちゃった…」
「気にすることはない…で、お前からは何がもらえるんだろう?」
「あ、あの…っ」
一騎は急いで服の袖で顔を拭い、持ってきた鞄を開けた。
鞄のそこに、細長い包みがある。
「あの、これ」
「…中身はなんだ?」
「…えと……ブラシ……」
「……ブラシ……か…」
総士は心底意外だ、というように目を丸くしていた
「あ、うん、あの、こないだ洗面所見た時にその、ブラシがくたびれてるなあ、って思って」
こういう時には、思ったことは口に出ない。
どうしてなのだろう。言葉を発する時、脳というものはどのような働きをするのだろう。

 用意していた言葉の半分も口に出来ない自分の脳を、一騎は呪っていた。
「えと、マイナスイオンがどうとかっていうブラシで…えっと、つまり髪に良くて」
しどろもどろに説明していると総士が噴出した。
「分かった、ありがとう一騎。嬉しいよ」
微笑み、包みを開ける。
中から出てきたブラシに、総士はほう、と声を上げた。
「これは使い勝手が良さそうだな」
「…ごめん…あの、あまりいいのが思いつかなくて」
「そんなことはない、これなら毎日使える」
そして、肩を抱き寄せてくる。
「ありがとう、一騎。毎日お前を思い出すだろう」
これを使うたびに。
囁いた総士の優しい声に、これまでのもやもやが吹き飛んでゆくのを感じて、ついその背中を抱き締めていた。
 喜んでくれて、ありがとう。
自分こそ、そう叫びたい。

 「それで一騎」
「え?」
「やっぱり帰るのか?」
一騎は首を振った。
「誕生日は始まったばかりだもん。終わるまで帰らないよ」














 






 



John di ghisinsei http://ghisinsei.sakura.ne.jp/

2006/12/27