甘すぎるドーナツ
突然頬を叩かれて一騎は飛び起きた。
「一騎! 起きろ。出かけるぞ」
そうしが布団の上で飛び跳ねながら騒いでいる。一騎は首をめぐらせて枕もとの時計を見た。六時半だった。
「そうし……何時だと思ってるんだ。今日は休みなんだ、寝かせてくれ」
剥がされた布団を引っ張り上げる。と、その布団が派手にめくられた。
「何を言ってるんだ、一騎。昨日約束したではないか」
はたはたと布団の上を飛び回りながら、手にした小さな紙をひらひらさせる。
「えー……?」
まだ眠い目を擦りながら半身を起こす。そうしが手にしているのはちらしのようだった。
「ほら、これだ。昨日、約束したではないか、一緒に行く、と」
「……なんだっけ、これ……」
寝起きということもあって視界がはっきりしない。ぼやけた文字を追う。そこには、竜宮島初のドーナツ専門店の宣伝文句が踊っている。
「ああ……これかあ」
ようやく思い出した。
昨日、新聞に入っていたチラシだった。そうしがこういったものを見逃すはずもない。大変な興味を示し、今にも飛んで行きそうな勢いだったのだ。
開店は明日なのだ、と言い聞かせ、なだめ――― 気が付けば一緒に行く、という約束をさせられていた。
ぼりぼりと頭をかきながら改めて時計を見る。
「まだ七時前だよ? 店って普通、十時からだよ」
「さっき、ニュースでやっていたのだ。もう行列が出来てるそうだ! 早くしないと今日中に買えるかどうかも判らないとか」
「はあ? そんなまさか」
半信半疑で下に降り、つけっぱなしになっているテレビを見る。
『先ほどお送りしました新しいドーナツショップの様子です。現場の様子はどうでしょうか』
画面ではキャスターがにこやかに伝えている。切り変わった画面を見て一騎は仰天した。
文字通りの行列だった。大げさでもなんでもなく、本当に、竜宮島の狭い商店街の一角に人が列を作っている。通りが人で埋まるほどだった。一騎はこれほど多くの島民が集まったところを、シェルター以外では見たことがないような気がする。
「……」
竜宮島の人ってこんなにドーナツ好きが多かったのか、と変に感心するくらいの人の多さに呆れて声も出ない。
思えばこのようなショップは今までに竜宮島にはなかった。ドーナツが好き、というよりも単なる物珍しさからだとは思うが、それにしても。
「早くしろ一騎」
そうしの声に我に返る。確かに、この調子では急がないとドーナツを買う前に売切れてしまいそうだ。
一騎は急いで顔を洗い、支度をして――― つまり、そうしにいつものパーカーを着せて羽根を隠し、帽子も被せて家を出た。
「すごい列だなあ」
まさに老若男女、竜宮島の全ての島民が実は『さくら』ということで駆り出されたのでは、と疑いたくなるほどの人が並んでいた。
中にはよく知った顔も多い。剣司も並んでいた。
真矢も。
彼らは結構前にいる。ということは何時からここにいたのだろう。
その列は商店をはるかに過ぎ、町外れの石段のところで終わっていた。そこに陣取り、ため息をつく。
「これじゃあいつ頃買えるんだろうね」
「お前が寝坊するからいけない」
ぷん、と頬を膨らませたそうしの、その頬を突く。
「そしたら俺が代わりに作ってやるよ」
しかし、と石段に腰を下ろして頬杖をつく。
「こんなに並ぶからには旨いんだろうな」
「そうではないのか? テレビで一番に買って食べた人のインタビューをやっていたが大変美味しい、と言っていた。これまでに食べたことがないほどだ、とも」
「ふうん……まあ……確かにそういう専門店自体、なかったしね」
言いながら、ふと思う。
こうして並ぶ、ということも、もしかしたら島民のわずかな楽しみ、娯楽の一つではないのか、と。
極端に娯楽の少ない島だった。それでも何かしら見つけてはそれを楽しみに変えていた。だから、幼い頃から退屈したという記憶はあまりない。
そうしたことから考えると、こうして新しい店ができる、ということは確かに、島民全てが出て来てもおかしくないほどの一大イベントなのかもしれなかった。
一騎の後ろにもぽつぽつと人が並び始める。さらには列も少しずつ進んでゆき、石段から通りへ、通りからさらに商店街の近くへ。
太陽の位置が高くなる頃には随分と店に近くなっていた。
「おお、いいにおいがしてくるぞ、一騎」
「ほんとだ」
風に乗って、わずかだが甘い、いい匂いが漂ってくる。
さらには買った人たちが商品を手に通り過ぎる、そこからも香りは届く。
「へえ。美味しそうないい匂いだなあ」
朝食をとっていないせいもある。そうしの付き合いで仕方なしに出てきたものの、今ではドーナツを買うのが楽しみでたまらなくなってきている。
列が動くにつれ、そうしがそわそわし始める。
「列が動くぞ、あと少しだ」
きっと、飛び上がりたくてうずうずしているのだろう。パーカーの背中で羽根が動いているのがよく判る。
一騎は飛び上がったりしないよう、その肩を捕まえて放さなかった。
見た限り、そう大きな店ではない。ちんまり、という表現がぴったりくる。
その小さな店の前で人がひしめいている。
いよいよ店の前に来て一騎は驚いた。
カノンが列をさばいていた。
「カノン……何、手伝ってるの?」
「ああ、おはよう、一騎、そうし」
そうしににこやかに、優しい笑みを向ける。
「手伝いと言えばそうだな。アルバイトというのをやっている」
「へえ……!」
「これを」
商品の写真を載せたボードを渡される。
「注文をここに書いてくれ」
「あ、ああ」
カノンはすぐに次のものに同じようなボードを渡している。一騎は驚きつつも、これ以上は仕事の邪魔をするようで話しかけるのも躊躇われ、ボードに視線を向けた。
すかさず小さな指がボードを突く。
「これとこれと、あとこれだ」
「…………判った。父さんはどれがいいと思う?」
「史彦にはこれがいいのではないか? 見た感じが糖分控えめ、という印象だ」
「見た感じ、ね……確かにそうかな」
いくつかに印をつけ、順番を待つ。
そして。
自分たちの番になって、一騎はさらに驚いた。
「……君は……」
かつて人類軍から島のファフナーを動かそうとして失敗した、あの娘たちのうち、二人がいた。
「ベラとオルガだ」
いつの間にかそばに来ていたカノンが紹介してくれた。
「あ……あの」
一瞬、言葉に詰る。
「おお。君たちもここでアルバイトをしているのか」
そうしがボードを差し出しながら言った。
「そうだ。ここなら私たちにも出来そうなので」
ベラがはにかみながら答える。オルガも頷いた。
「カノンに紹介してもらった。ここなら自分たちの知識も生かせる」
「オルガ、といったな。お菓子作りも出来るのか」
「少しなら。子供の頃、母さんに教わった」
「そうか。それは良かった」
そうしは嬉しそうに言うとベラの方を振り返る。
「お前もドーナツを作るのか?」
ベラは頷き、自嘲するような笑みを見せた。
「このようなところで……今の時代に、戦闘以外の自分の知識が役に立つとは思わなかったので驚いている」
ボードを見ながら、チェックの入ったドーナツを箱に収めてゆく。その顔はごく普通の、どこにでもいる女の子の顔だ。
「良かったじゃないか。戦闘のことよりもお菓子を作れる方が僕は偉大だと思う」
大真面目に、胸を張っていうそうしに、二人とも笑いを堪え、そして、頷いた。
「いつかお前たちの国のお菓子も食べさせてくれ」
「ロシアのお菓子は甘いぞ」
茶々を入れるカノン。アイルランドも似たようなもんだ、と返すオルガ。ベラは呆れたように大仰に肩をすくめて見せる。
一騎はふと気付いて言った。
「あれ。もう一人いたよね?」
「ああ、晶晶のことか?」
箱を袋に入れながらベラが、
「彼女は溝口さんの店で働くそうだ」
「へえ、溝口さんの」
なるほど、確かに彼女にはあっているかもしれない。
「これは開店記念の特別サービスだ」
オルガが小さな袋を一つずつ手渡しながらにっこりと笑った。
「この店の一番人気のドーナツが入っている」
会計をしながら、一騎は来て良かった、と思った。
朝早くから、昼近くまで。空きっ腹を抱えて正直、堪える買い物ではあったが、それでも気持ちは満たされていた。
箱を抱えて帰る道すがら、そうしは開店記念のおまけのドーナツを頬張りながら、良かったではないか、と言った。
「彼女たちはここで戦闘以外に自分たちを生かす道を見つけたのだ、これは素晴らしいことではないか」
「うん、本当に」
本当に、心の底からそう思う。
このような世界を、総士もきっと夢見ていたに違いないのだ。
「やはりドーナツはいいな。この形が良いのかもしれん。わっかだろう?」
「うん? 輪がどうかしたの?」
「友達の輪、と昔から日本ではいうのだろう? いいことではないか」
「……それ……テレビで覚えたんだろ」
「ああ。そうだ。素晴らしい言葉だと思った。それにもっと昔からあるではないか、輪を持って尊しとなす、という言葉が」
突然の話の飛躍に頭の方が付いていかなかった。何のことか理解して、脱力する。
「…………そうし。それ、字が違う。そのわ、っていうのは輪っかじゃなくって、調和のわ、だよ」
「発音が同じということはおそらくは意味も近いのだろう」
「……そうかもしれないけど」
それにしても、テレビのお笑い番組と日本最初の憲法を一緒くたに語るのはどうかと思う。
「ところで味はどう?」
「うむ」
口いっぱいに頬張りながらうんうん、と何度も首をたてに振る。うまい、といいたいのだろう。
「……なんか……すごく甘そうだね……」
そうしの食べているそれは、表面に厚く白いものがかかっている。おそらく砂糖蜜だろう、と容易に想像できる。そして、その甘さも。
想像しただけで頬の奥がむずむずしてくる。
家に帰ったら紅茶を入れよう、と一騎は思った。
砂糖は入れずに飲んだ方がいいだろう。
でも、どんなに甘すぎても、また自分はあの店に行くだろう。
あそこで楽しそうに働く彼女たちが見たくて行くに違いなかった。
John di ghisinsei http://ghisinsei.sakura.ne.jp/
2010/05/04