駒
パチリ、と澄んだ音が響く。
開け放した窓からは湿気を帯びた風が流れ込み、セミの声は間断なく音の洪水となってあたりを包む。
首を流れる汗を拭い、一騎はまた、パチリ、と駒を置いた。
「ここだと…桂馬がくるか。いけね」
気が付いて、駒を取ろうとして思いとどまった。
置いてしまったのだから、仕方がない。気付かなかった自らのミスだ。
「……黙って取られるだけか。これで何度目」
一人呟く。
相手は本だった。父の持っていた古い本で、すでにボロボロになっている。
その本を見ながら、一人で将棋を指していた。
将棋など、やったことはなかった。父に教えてもらうほどの時間もない。
何故、興味を持ったのかも分からないままに、一人で駒を置いていた。
日は傾き、少しずつ空はオレンジに染まってゆく。
「そこだと飛車が効いてるな」
突然の声に一騎は振り返った。史彦が立っていた。
アルヴィスに行っていたはずなのに、いつものような作業着姿だった。
「飛車が効いてるってなに」
いつ帰ったのだろう、と思いつつも、それについては尋ねなかった。史彦はいつもそうなのだ。
史彦は黙って駒を動かした。
「もしこれを向こう側の桂馬が取るとする。そうするとここに」
端の方にあった飛車を差す。
「これが飛んできてすぐに取られる。だから取られる心配はない」
「あ。そっか」
端の方に置いてある飛車の存在を、一騎はすっかり忘れていた。
一騎はしばし、将棋盤を睨んだ。
「これをわざと取らせる、ってこと、ある? 向こうが取るようにさせて…」
「それで飛車で、ということか? まさか。お前だったらあるかもしれんが、普通はそのくらいは読む。
今のお前みたいに味方の存在を忘れていたら別だがな」
史彦は苦笑した。
「大体、このようなところに進んでは行かないだろう。
攻めるならここだろう」
盤のひと隅を指す。
そこは敵陣のまん前だった。
「え、だって…取られちゃうだろ。……あ」
言いかけて気が付いた。そこは角の道筋に当たっていた。こちらの歩兵が動けば角が自由に通れるようになる。
「ここに歩を張ってもいいの?」
「構わん。こっちは逃げるしかない」
「ふうん…」
よく分からないままに一騎は駒を動かしてみた。
史彦はそれに応えるように相手側の駒を動かす。
本を相手にやるよりもはるかに真剣になってしまっている自分に気が付いた。
その晩はいつになく遅くまで父と将棋に興じてしまっていた。
まだルールもろくに飲み込めておらず、その意味ではまったく勝負にならなかったけれど、それでも一騎は初めて面白い、と思った。
昼だというのに、夕方のように暗く、そして蒸し暑かった。
明日は雨になるのだろう、深い霧が立ち込め、濃い緑に彩られているはずの木々も岩山と見分けが付かないほどに暗い色に沈みこんでいる。
訓練開始を告げるサイレンも霧の中に吸い込まれていくような気がする。
前を走る剣司の影が時に岩や木に溶け込んで分からなくなる。
『一騎!』
総士の苛立ちを含んだ声が響いた。
『勝手に走るな! カノンとの連携を忘れるな!』
「あ…ごめん…」
気が付けば剣司を追うのに夢中になっていて、カノンの存在を忘れていた。
ふと、昨日の将棋を思い出した。
史彦には、常に他の駒とあわせて動かすように言われた。
霧の中に目を凝らしてカノンの動きを追う。カノンもまた、こちらの動きを意識している。
そうして剣司を指定された地点に追いこんでゆく。うまく時間までにそこに追い込めなければ真矢が援軍として現れる。
訓練はなかなかうまく行かず、総士は霧を払うかのような勢いで怒鳴り続けていた。
「まったく」
訓練後、総士はため息をついて額を抑えた。
「一騎は一人で突っ走りすぎる」
「…ごめん」
ただ謝るしかなかった。
もともと、一人で戦闘をすることが多かった。
仲間との連係プレーというものにまだ慣れていない。
そもそも、作戦通りに動くということさえ一騎はほとんどしていなかった。
仲間と組んでといわれてもただ一緒に走っているに過ぎず、総士を苛立たせた。
「まあ…いい。しかしいつまでもこれでは困るぞ。敵はこちらの訓練が終るのを待ってはくれないぞ」
「うん。頑張る」
小さく頷く。
ふと、また父と指した将棋の事を思い出していた。
「総士…お前、チェス、好きなんだよな」
「あ? ああ…どうした、いきなり」
椅子に腰を下ろしてコーヒーをすすっていた総士は怪訝そうに振り返った。
「うん…どうした、ってこともないんだけど。
今さ、時々…将棋やってるんだ。まだルールとか良く分かってないんだけど」
総士はコーヒーカップを口に当てたまま、こちらを見ている。
その目は可笑しそうにわずかに細められていた。
「チェスっていうのは俺、知らないんだけど、将棋に似てるんだろう?」
「ああ。似てるな」
一騎は総士の隣に腰を下ろした。
「……昨日、父さんと将棋やって…俺、ボロ負けしたけど」
自分でつい、笑ってしまった。
昨日は散々だった。一騎は主だった駒のほとんどを取られ、王様が一人で逃げ回る、という、およそ将棋とは思えないことをやって史彦は大笑いしたものだった。
まともな将棋ではまず考えられないだろう。
「…俺たちって…歩、かな」
「……」
「時々相手に取られるんだけどさ。でも王様を守ってるだろ。
もっと強い金とか銀の代わりに歩が取られて、そうやって王様の逃げ道、作ったり。
王様も結局は一人じゃ駄目なんだ。金とか銀とか…そういうのが周りを守ってさ」
総士は黙ってコーヒーを飲んでいた。
王将は、この島だろうか、と思う。
金や銀がおそらく総士なのだろう。そして、自分たちは歩だ。
自分たちの代わりはいる。
けれども、金将や銀将、あるいは飛車角が取られた時の痛手は大きい。
「しかし急に将棋なんて。どうしたんだ」
「うーん、自分でも良くわかんないけど。父さんと溝口さんがやってるの見てて何となく」
そして、ふと昨日の出来事を思い出して一騎は笑った。
「将棋、父さんの方がはるかに強いのに。父さん、罠に嵌ったんだよ」
「へえ? 罠?」
「うん、罠っていえるほどでもなくって…まあ、偶然なんだけど」
一騎が置いた駒を、史彦は、そこは角が効いてるだろう、よく見ろ、と笑いながら角で取ってきた。しかし、そこは一騎の飛車の道でもあった。あっさりと飛車で角を取られた史彦は、それこそあの父には珍しくぽかんと口を開けていたものだ。
総士はくすくすと笑った。
「そりゃ…司令も油断したんだな」
「うん、俺が下手くそだからね」
「お前は自分の飛車がそこにあるという事を知ってたのか?」
「うん。でも、その前にも似たようなことがあって、俺がこれ、罠になるのか、って言ったらそんな罠にかかる馬鹿もいない、って笑われたんだ。結局引っかかったんだよ」
「でさ、その時に俺、思ったんだ」
もしかしたらその将棋の駒のように、相手を倒すために歩のように小さな駒をわざと取りやすく置くことも必要なのかもしれない、と。それによってより強大な敵が倒せるなら、致し方もないことかもしれない、と。
総士は残り少なくなったコーヒーを飲み干し、視線を動かした。
「それで…自分が歩だと思ったのか?」
一騎はしばらく考えてから頷いた。
「どうだろうな」
しばしの沈黙の後、総士はカップの底を見つめながら呟いた。
「将棋の駒は取ったら持ち駒となってまた使えるだろう?」
「うん」
「チェスでは使えないんだ。そこが大きな違いだ」
「そうなんだ」
総士の声は先ほどまでとは違っていた。
あまり興味もなさそうに紙コップを弄び、やがてそれをゴミ箱に放った。
「なあ、総士。今度、チェス教えてくれる?」
「ああ。お前が将棋を完全に覚えた頃にな」
こちらは見ないまま、立ち上がり、休憩室から出て行った。
蒸し暑い空気とセミの声の中で、駒を置く音だけはどこか涼しげに感じられる。
久しぶりの休日だった。
このところアルヴィスに詰めっきりになっていた。
冷房のない暑い部屋、シャワーのように響くセミの声に、何年か前の夏を思い出す。
その後、一騎は総士にチェスを教わることはなかった。
チェスを教えてもらう前に、総士は消え、まだ戻っては来ない。
パチリ、と澄んだ音をたてて史彦が駒を置き、そこにあった一騎の駒は持っていかれてしまった。
「あ…」
思わず声を上げる。
「いつまでたっても覚えんな」
史彦は呆れたように言った。
一騎の動かした駒を見て、では、と持ち駒の中を探した。
思わずため息をつく。
一騎はかなりの数の駒を取られていたから、史彦の持ち駒はいくらでもあった。
「よし、これで行くか」
角が置かれる。
「飛車取りといこう」
「……」
一騎は盤の上を眺めた。置かれた駒の先の自分の駒は逃げ場がない。このまま取られるしかない。
しかも、その後も何の手立ても思いつかない。
一騎は史彦が置いた駒をじっと見つめた。総士と話した時のことを思い出していた。
あの、将棋の駒を自分たちに例えて話した時のことを。
歩は自分たちだ。
それは多分、間違ってはいない。
取られた駒は、まるで同化された自分たちのようだ。
首の後ろが総毛立つのを感じた。
相手側に行ってしまった自分の駒。それは今、また自分のところに襲い掛かってきている。
戻ってくるのではなく。
敵になってしまったらどうしよう。
甲洋を銃撃しようとした父。
けれどもそれは決して過ちでもなんでもなく、むしろ彼の立場では当然のことだったのだ。
それが出来なければむしろ司令官として失格だったのだろうと思う。
だから、次にまた同じようなことがあっても父は同じようにするだろう。
つまり、総士が敵となって戻ってきても。
汗が流れてくるのに、身体は冷え切っている。
一騎は汗を拭った。
駒を動かす。一進一退が続く。
史彦の駒を取り、こちらも取られ。
取られた駒は、何度も一騎のところに戻り、また離れた。
この駒のように。
自分たちは王将を守るためにどれだけ犠牲を払っても戦い続けるのだろう。守るものが島であるのか、あるいは未来や希望と言った言葉で呼ばれるものなのかは、一騎にはまだ分からなかった。
John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/
2008/07/05